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2008年9月30日 (火)

モノクロ写真の世界(6)

今月の一枚 : 「神戸にて-1-」

神戸の三宮駅から神戸駅までのJRのガード下は、多種多彩の商店や飲食店が寄り合っている。私のような信州から出て行くと、垢抜けた繁華街と違って、ある意味においての関西的な雰囲気が漂っている事が感じられる。これは今年の初夏に神戸を訪れた際の一枚。(クリックにて拡大)

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2008年9月23日 (火)

新生ピンク・フロイドの可能性が浮上

リック・ライトの死がもたらすもの

Photo Photo_2  リック・ライトの死は、実はロジャー・ウォーターズにとってはギルモアやメイスンよりも大きな一つの事件であると私は確信する。
 ギルモアがメイスンとともにピンク・フロイドに固執したのは、デヴィット・ギルモアでは売れないことが解ったのは、1984年のソロ・アルバム「狂気のプロフィール About Face」の発表と、そのツアーであった。そのツアーの寂しさはピンク・フロイドでは考えられないものであった。まさにピンク・フロイドの名前の偉大さを知ったのだ。そして多くの人の力を借りて「鬱」を作成し、ロジャー・ウォーターズとのピンク・フロイド争奪戦において、リック・ライトの取り込みを行い、3対1になれば、そのことは更に自分に有利に働くことは当然で、当時創造力を欠いていたライトも仲間にしたことは、ギルモアの一つの作戦でもあった。当時はライト自身もピンク・フロイドに対しては自信もなく、女房に尻を叩かれてしぶしぶ「鬱」に参加したくらいだ。しかしそれを上手にリードしたのはギルモアで、そのぐらいギルモアというのは敵を作らない性格の上に、営業的にもそこそこ能力を持っていた。それに反してロジャー・ウォーターズは、作戦のないストレートな性格であり、良いときはそれでうまく行くが、悪い展開では手が付けられなくなる。更にウォーターズの反体制的コンセプトについては、ライトはそうした感覚持ち合わせていない為に、精神的にも苦痛であった。まさにウォーターズとライトはロック感覚では水とと油であったことは事実だ。
Roger_2 Gilmour_2    さて、ここに残念にもピンク・フロイド・サウンドの一角のライトは亡くなった。しかしウォーターズは、ピンク・フロイド争奪戦においては法廷闘争に持ち込んだくらいの戦いの対象であったギルモアに対しては、現在はそれほどそのことには固執していない。むしろギルモアは「ファイナル・カット」でも、文句は言いつつも最も協力したメンバーである。更に近年のロジャー・ウォーターズの世界ツアーは大成功に終わっていることによる自信は大きい。彼の念願のオペラ「サ・イラ」も完成した。そしてギルモアのギターはそれなりに評価をしている。そうした中で、ギルモア自身もピンク・フロイド名義から離れて2006年以来、ギルモアの名前でツアーを成功させた。ここに来て両者はそれぞれの世界で自立し、ある意味においてはピンク・フロイドを後ろ盾にした個人名義のアーティストとしての立場を確立している。こうした安定感こそ両者に余裕をもたらしている。一方メイスンは個人としての力量は尽きているが、ウォーターズとギルモアとの関係は良好である。ライトがいなくなった今、かえって話は面倒でなくなったと言える。
 今度は、ウォーターズとギルモアが手を結べば、もう何も複雑なことはない。もともとかっての若き時代は、ギルモアはウォーターズの独裁ぶりには手を焼き、ウォーターズの社会批判精神には疲れ果ててはいたが、彼の創造性には一目をおいており、全ては否定していない。そしてギルモアというのは意外と世渡りは上手である。世間が今度はウォーターズとギルモアのコンビを本当に熱心に期待すれば、そこそこ上手にやっていけるところがある。ウォーターズはどうか?というと、ライトは無理であるが、彼がいなければ案外すんなりとギルモアを受け入れるであろうというところもある。そうであるとすれば、両者を結ぶにはそのあたりはメイスンの力が大きいと思われる。今やお互いに時代を作った評価をそれなりにされるようになって、お互いを認め合うところが構築された。展開は変わる因子がある。
 と、言うことは、ライトが亡くなったことは残念であるが・・・、むしろ新生ピンク・フロイドはひょっとすると結成される可能性が浮上してきたと言える。世の中は何がどう変わって行くかは解らない。そこが面白味のあるところであり、力まずに円熟したピンク・フロイドがみせるものも、ちょっと見てみたいのは私だけではないであろう。

 

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2008年9月19日 (金)

リック・ライト(ピンク・フロイド)の評価

リック・ライトの死の波紋

 少なくとも、リック・ライトの死により、改めてピンク・フロイドが注目されたのは事実だ。そしてピンク・フロイドにおける彼の役割と評価は、ここ数日の多くのブログでもサウンド面においてピンク・フロイドへの貢献を讃辞している。
 私は、あるロックを愛しているブログに、以下のようなコメントを入れたので紹介しよう。

Richard_wright
”残念ですね。シドに続いてリック・ライトの死亡のニュースは。皆さんがおっしゃるようにピンク・フロイドのサウンド面の貢献はリック・ライトは大きかったと思います。そもそも歴史的には、シド以降のサイケデリックからプログレッシブと言われるようになるバンドの一つのポイントは、キー・ボードにあると思います。”エコーズ”のような残響音を中心にした音ではありませんが、「モア」なども、この時はギターよりキーボードが効果を発揮しています。”

 しかし、彼の音楽的技能的進化は”エコーズ”を頂点として、その後はその延長・繰り返しに終わり、又「炎」の後は、彼の個人的家庭的事情で、ピンク・フロイドへの貢献は低下してしまった。当時はパンクの嵐で、多くの形骸化したバンドが潰れる中、ロジャー・ウォーターズのピンク・フロイドを続ける為の努力はすざまじく、しかしそんな中でもライトの協力度が低下していたことは、本人の認めるところのようだ。多くのファンを魅了したのは「炎」までのピンク・フロイドで、その意味ではライトの功績大きくそれを評価するのは良く解る。しかし時代的考証をすると、パンクの吹き荒れる中、あの「アニマルズ」「ザ・ウォール」の世界があったからこそ、変化するロック界で更にピンク・フロイドの価値観が高まったのも事実で、当時のロック界でこれがあってピンク・フロイドは生き延びたと同時に巨大化したのも忘れてはならない。
  ウォーターズがライトを切ったのは、以前からのライトのAOR的音楽手法はあまり好まなかったのも事実であり、そして「アニマルズ」作成には、全く貢献度がなかったこと、彼のAORでは生きれないと判断した事、ウォーターズのコンセプトをライトがあまり理解するところが無かった事などが原因と考えられる。
 いずれにしても、ライトの死のニュースに当たり、我々にピンク・フロイドという無二の世界を与えてくれたピンク・フロイドの一員としてのライトの活動に感謝し、冥福を祈りたい。

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2008年9月16日 (火)

リック・ライト(ピンク・フロイド・メンバー)死亡

リック・ライト、9月15日癌のため死亡

Rickwright ピンク・フロイドの終結をコメントしてきたが、9月15日リチャード・ライトRichard Wrightは、癌のため死亡(65歳)のニュースが入ってきた。
 彼のキー・ボード・サウンドは、歴史的にはピンク・フロイドの重要な役を果たした(アルバム「モア」から「おせっかい」が彼の頂点か?)が、アルバム「狂気」以降は、そのスタイルに新しさは失せていた。ロジャー・ウォーターズは既に彼を不要としていたが、ギルモア時代に再び登用されたが、やはりロックというジャンルにおける評価は得られなかった。
 彼の死亡により、ロジャー・ウォーターズを加えた4人によるピンク・フロイドの再結成は、あの”ライブ8”に於ける儀式的集合が最後で、これで完全になくなった。

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2008年9月15日 (月)

ピンク・フロイドPink Floydの始動と終結(7)

音楽を超越したリアリティーで終結するフロイド世界

まさに破壊寸前のリアリティーが迫ってくる。ピンク・フロイドとは何だったのか?、実験、創造、内省、不安、歪んだ社会批判、反戦等の世界が、いよいよ一連の”ウォール・プロジェクト”というウォーターズの企画の最終章として、(映画アラン・パーカー監督「ザ・ウォール」の制作に続いて)1983年12thアルバム「ザ・ファイナル・カットThe Final Cut」を発表する。
Photo このアルバムのサウンドは更に斬新なものになり、もはや過去のピンク・フロイドではない。そしてかってのフロイドとも決別したダイレクトな歌詞のメッセージは、ウォーターズの「狂気」以降の流れを知るものにとっては感動無しには聴けない。これは如何にも大衆受けするAOR(adult oriented Rock)からの完全な脱皮として成し遂げられることになった。ウォーターズが「モア」の時代から「原子心母」「おせっかい」を経て、「狂気」に至った流れは、何時までも過去のサウンドによるアルバム作りをするバンドでない事を物語っている。そして、「アニマルズ」「ザ・ウォール」を経たときに、至ったモノがこのアルバムであった。「ザ・ウォール」にて自己の心情を暴露した後には、彼のトラウマの清算が必要であった。それは若くして戦死した父親への思いであり、更にフォークランド紛争への抗議、核戦争の破壊的行為に対する警鐘などがオーバーラップして、何はさておいても造らざるを得なかった彼の「ザ・ウォール」の最終章であった。
 実はもともと「炎」でピンク・フロイドは終わったはずであった。しかし聴くものはパンク・ロックを支持するロック・ウェーブの中で「アニマルズ」を許し、そして逆に「ザ・ウォール」で感動し、「狂気」以降の二つめ頂点に沸いた。この流れは必然的に全曲ウォーターズによるもので埋め尽くしたこの「ザ・ファイナル・カット」を作らせたとも言える。ギルモアとメイスンは、ウォーターズのこの作品作りを許容した。そして緊張感の中で演奏する。ウォーターズの呟くような歌声に炸裂する大音響、そして絶叫し又囁く。そんな中でギルモアのギターが哀しくも美しく響き渡る。”the fletcher memorial home”から”southampton dock””the final cut”に流れる世界はまさに名曲である。戦場に我が子を送った母親が涙したこの世界は、ウォーターズが最も原点としているところだ。そして最終曲”two suns in sunset”で、”灰とダイアモンド、敵と友、これらは究極的には皆対等(同じ)であった”と結ぶ。これでピンク・フロイドは、「炎」で終えた後に、完全にこのアルバムで終結する。

 哀しいかな、このLP時代の終わりには、多様化した一般大衆は、ウォーターズの更に前進したアルバム作りに既について行けなくなったことも事実である。数十年を経過したロックは、そこまでプログレッシブな姿勢が必要でない世界になってもいた。ギルモアとメイスンがカー・レースで遊ぶ姿のバックに流れるロック(「道:カレラ・パンアメリカーナ」)で十分だった。ここに哀しいピンク・フロイドの歴史が1987年になって刻まれることになる。
Photo_3 Photo_4

ギルモア主導による商業ベースに乗せられたピンク・フロイドの登場だ。アルバム「鬱 a momentary lapse of reason」「対 the division bell」のリリース。ここに来て、もはやピンク・フロイドのプログレッシブな姿は失われ、過去の懐かしサウンドの模倣と再現。アンコール版の出現としか言いようのない形骸化したピンク・フロイド・アルバムであった。

 ピンク・フロイドは、狂気の天才シド・バレットにより興され、その幻影に悩まされつつも、自己のトラウマと歪んだ社会と戦ったロジャー・ウォーターズ。そしてそれにサウンド的に色づけしたデヴィット・ギルモアとリック・ライト。彼らを暖かく支えたニック・メイスン。これがピンク・フロイドであり、それ以外の何者でもない。この姿でビンク・フロイドは終結したのだ。
 「ザ・ファイナル・カット」から既に25年、この4人のメンバーのそれぞれの歩んだ世界は余りにも異なった。今や4人にとっては、”ライブ8”などで一緒に演奏しても、これはまさに儀式でしかない。歳も取った彼らは、これからは儀式はむしろ盛んになるかもしれないが、ロック界を巨大に作り上げたピンク・フロイドは、丁度LP時代の終焉と同時に終結したのだ。

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2008年9月 8日 (月)

ピンク・フロイドPink Floydの始動と終結(6)

ロック界の巨大バンドの変身

Photo  4人のバンド・メンバーの共作により作り上げて来た世界から、異質の世界へウォーターズはピンク・フロイドを導いたアルバムの作成を断行。既に過去にピンク・フロイドが評価を受けた重要な因子であるコンセプトのそのリーダーであったウォーターズの実績には、この変身をメンバーの他の3人は不本意ながらも許容を余儀なくされた。この1977年10thアルバム「アニマルズANIMALS」は、ウォーターズにすれば前作「炎」と平行してライブで演奏していた曲群を使って、”パンク・ロックでなければロックにあらず”のロック革命の嵐の中で、実はパンク以上の問題意識を持っていたが為に、歌詞を大胆にストレートに修正し、こうした攻めに入らざるを得なかったのかも知れない。そして過去にとらわれずに、敢えて築き上げてきたエコー・サウンドを基調とした音響的な魅力をかなぐり捨て、むしろストレートでハードなサウンドを選びそれを前面に出し、過去の内省的なテーマから、社会問題に矛先を向けた。
 ピンク・フロイドの幻想的世界に評価をもっていた評論家達は一斉にネガティブな反応を示したが、しかしこのアルバムによりピンク・フロイド(ウォーターズの)の歪められた現代社会批判のコンセプトの激しさに、むしろライブでは更にピンク・フロイドというものの価値観を高めることになり、評論家の予想とは裏腹に大衆の支持を得るのに成功し、更に巨大化していった。しかし、そんな現象もウォーターズにとっては、決して素直に喜べるものでなかった。彼の問題意識の理解無く大騒ぎする聴衆にむしろ嫌悪感を抱くようにもなった。(この”アニマルズ・ツアー”の最終日の様子は、まさにウォーターズの炸裂した爆竹に端を発して怒り、演奏を中断し、不満をまくしたてる姿が記録されている : Bootleg 「THE END OF ANIMALS」live at olympic stadium,Montreal,CANADA july 6 1977: AYANAMI-150 参照)
 こうした中で、当時ギルモアとライトのソロ・アルバムが発表される。このことは既にアルバム作りにお互いの共通の世界が無くなったことを物語っている。(この時のギルモアのソロ・アルバム「DAVID GILMOUR」は彼にとっては初の試みであったが、フロイドの世界から離れての重圧から解放された音楽重視の彼の姿が見えて、なかなかリラックスしたAORであって、後のフロイドを名乗った「鬱」「対」のような力みが無くいいアルバムだと思う)

Photo_2 そして1979年、ウォーターズは彼の人生に加えシド・バレット結成したピンク・フロイドのロック・バンドの歴史、彼が常に抱いていた(出征して戦死したために一度も会わずの)父親の不在のトラウマ、狂気への不安、現代社会の矛盾、管理社会の非人道性など全てを網羅した集大成アルバム11thアルバム「ザ・ウォールTHE WALL」を完成させた。当時のロック・アルバムとしてはLP2枚組という例外的長さの曲群を大衆に聴かせてしまうウォーターズの手法は、ここに完成をみるのだ。このアルバムは全米1位、全英1位という成功をおさめた。不滅のピンク・フロイドの歴史的アルバムとなった。(しかし、この世界こそウォーターズの世界であって、既にバンド・メンバーからライトは落とされ、単なるキーボード奏者として参加しているにすぎなかった。ギルモアもこの狂気に満ちたウォーターズの感性と主張の世界に疲労を感じ、ウォーターズから間隔を開けるようになる。歴史的ピンク・フロイド・バンドは実質解体状態となった)
 しかし、このコンセプト・アルバム成功こそ、サウンド中心に傾きつつあったピンク・フロイドのAOR(Audio-Oriented Rock=音志向ロック、Adult Oriented Rock=大人を重視したロック)化、バック・グラウンド・ミュージック化の世界から見事に脱皮して、ロックの一つの頂点を極めたことになった。
 こうしてピンク・フロイドの繰り出す一つ一つのアルバムは、その時代の中で反応しながら、常にサウンドやリズムを中心に実験を積み重ね作り上げてきた。又一方ロジャー・ウォーターズにとっては未体験のシド・バレットの”向こうの世界(狂気)”に直面し、その影を感じつつ不安を募らせると同時に、彼自身の父親不在のトラウマを背負っての疎外感の中で、ある時は内省的な世界に没頭し、又一方社会不安の問題意識を強烈にアジテートし警鐘を鳴らしてきた真摯な姿がアルバムにそのコンセプトを反映させて、どれをとっても同じアルバムはなく真の意味でプログレッシブであったと言える。特に「狂気」以降のアルバムはウォーターズの世界の具現化であって、この「ザ・ウォール」が集大成であったことは間違いない。

(続く)

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2008年9月 7日 (日)

ピンク・フロイドPink Floydの始動と終結(5)

AORに傾くピンク・フロイドとパンク・ロックの嵐

Photo 1973年3月ピンク・フロイドにとっては、最も評価を受け、米国では初のNo1となるアルバム「狂気The Dark Side Of The Moon」の発表となる。このアルバムこそ全曲の作詞をウォーターズが行い、彼らの共同作業の一つの形として評価のある曲「MEDDLE」の”Echoes”のいわゆる弱点であるメッセージ性のない事からの反省から、コンセプトを明解にするアルバムとして打ち出したのである。
 このアルバム作りには、久々に時間を要した。ウォーターズのアイディア”不安と狂気、もうひとつの世界”。そしてそれに過去の構築されたフロイド・サウンドを、メンバーがライブを通して磨き上げたものとして作り上げられた。誰にも潜む狂気の不安、特にシド・バレットの現実を知った彼らの心に潜むダメージの大きさがここに歌い上げられ、孤独と社会からの疎外感までも、切々とウォーターズの詩に刻み込まれた。ギルモアのギター、ライトのキーボードも良い役割を果たしている。そして彼らが思った以上のまさに売れに売れたアルバムとなった。
Photo_2  ウォーターズにしてみれば、こうして売り上げと言い、内容的評価といい、世界トップに至るアルバムを造ってしまったことで、ロック・バンドとしての懐疑を持つに至り、次作は楽器をいっさい使わないアルバムという構想に入ったが、それはメンバーからも物議を醸し出すことになり断念。ここに長期のブランクをもち、1975年になって9thアルバム「炎Wish You Were Here」発表。この時期になるとウォーターズのコンセプトは完全にピンク・フロイドの核となり、彼の言葉で表現されて行く。あの「原子心母」の”If”から始まり、「狂気」でより具体的にした”Brain Damage”,”Eclipse”、そしてこのアルバムの”Shine On You Crazy Diamond”と、一連の作品に見る狂気への不安、シド・バレットとの決別の歴史、彼自身の疎外感、そして向こうにある世界と現実と世界の自己解決に至るまでの姿を、ギルモアのギターで美しくも悲しく歌い上げた作品となった。
 前作の「狂気」とは曲の地味さから又別のフロイドをここに見せるわけであるが、彼らのここまでの流れは、実は当時台頭しつつある下級労働者階級の”ロックをもう一度我々の手に”というパンク・ロックの流れには格好の攻撃対象となっていく。こうした中でプログレッシブ・ロックを代表とした音楽的にも、思想的にも難解でしかも哲学的ロックなどは、微塵もなく崩れ去ってしまったのだ。ピンク・フロイドのこの「炎」などへの曲作りは、見方によっては保守的なAOR(Adult Oriented Rock 大人が心を向けたロック)に傾き、特にライトなどはその世界に没入し、過去のロックの持つ人間的・社会的問題意識、反体制的精神の作品作りとはかけ離れていく。この時にフロイドのメンバーで、パンク・ロックに勝るとも劣らない反権力、反体制、反差別、反暴力(戦争という国家的暴力も含めて)精神の持ち主は、ロジャー・ウォーターズその人であった。ギルモア自身もウォーターズとは別のライトの音楽性重視に流れる傾向があったが、メイスンと同様にウォーターズの方向に従っていくことになる。
 このような状態の中では、このピンク・フロイド自身も他のバンド同様、崩壊寸前であったことは事実で、次のウォーターズの決意のアルバム「アニマルズ」では”メンバー冷戦状態ピンク・フロイド誕生”となってしまう。

(続く)

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2008年9月 5日 (金)

ピンク・フロイドPink Floydの始動と終結(4)

ピンク・フロイドの「the final cut」で終結するまでの道のり

 巨大化したピンク・フロイドのスタートは、決してサイケデリック・ムーブメントに後押しされたシド・バレットの世界ではなく、ウォーターズ、ギルモア、メイスン、ライトのプログレッシブな実験的アプローチが、”70年代に構築された巨大ビンク・フロイド”の原点であることを語ってきた。。シド・バレットは今でも熱心なファンがいる。その世界は別物としての価値観で評価すべきだ。
Photo_2  前回までに強調したように、その萌芽は「夜明けの口笛吹き」の”Interstellar Overdrive”に見られ、「神秘」の”Set Controls For Heart Of The Sun”と”A Saucerful Of Secrets ”にて、ウォーターズを中心としてのある意味においては哲学的な、しかも一方リアルな部分を持った歌詞に導かれた実験的サウンドやインストゥルメンタル・ナンバーなどは、シドのポップ的ミュージックとは全く別の方向に進んだものだった。これこそまさにピンク・フロイドの始動であった。
 日本で発売した当時のアルバム「神秘」のライナー・ノーツは八木誠が担当していが、”アート・ロック”という表現を出している一方、”すぐれた独創力と考え方をもっている”、”神秘的かつ悪魔的なムード”そして”このアルバムがピンク・フロイド・ブームの幕開けに大きな力を借すかも知れない。期待しよう”と、書いている。”悪魔的ムード”というところが、当時は日本ではそう捉えられたのか?面白いところだ。
Photo_3  この後の1969年の3rdアルバム「モア」は、「神秘」の成功でかなり自信を持ったロジャー・ウォーターズは、人間をテーマに組曲に着手。”the Man”,”the Journey”の作成と、ライブでの実験に入った。しかし当時の彼らにとってはおいしい仕事であった映画のサントラ(「モア」)に提供して、この組曲は空中分解する。(当ブログ”Bootlegから見るピンク・フロイドの真髄(1)「モア」「ウマグマ」2007.11.14”および”Bootlegから見るピンク・フロイドの真髄(2)「ザ・マン」「ザ・ジャーニー」2007.11.26”を参照) これが納められたこのアルバム「モア」は、当時のサウンド・スタイル(キー・ボードの多用)を非常に良く知ることが出来る。このアルバムこそ、意外にピンク・フロイドのそのものの姿であったように私には思えてならない。特に”Green Is Colour”,”Cymbaline”などは注目される。そして当時盛んにライブにて”Cymbaline”は演奏され、インプロビゼーションの醍醐味をも披露している。
Photo_4 そして1969年10月には4thアルバム「Ummagumma」をLP2枚組で発表。1枚目はライブ演奏の鮮烈さの記録とし、2枚目は4人それぞれが個々のカラーを打ち出した実験性の高い曲群を並列させた。このことは実は4人の音楽性が異なることをお互いに認識し、ここで実はピンク・フロイドは終結すると感じていたと推測される。しかし当時ライブ演奏していた続く5thアルバム「Atom Heart Mother 原子心母」の成功が、彼らをしてグループとして存続させることになる。





Photo この「原子心母」については、*当ブログ「Bootlegから見るピンク・フロイドの真髄(3)2008.1.1 ATOM HEART MOTHERは傑作か駄作か?」(http://osnogfloyd.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/bootlegpink_flo_7901.html)を参照して欲しいが、実はこのアルバムのB面の"If"は、ウォーターズのシドとの決別の苦悩を表現しての彼のその後のアルバム作りの根核を示すことになり、一方"Fat Old Sun"には、ギルモアの曲作りの方向が顕著に見られ、"Alan's Psychedelic Breakfast"では、ウォーターズの他のロック・グループにない実験性を示している。そうした意味で、このアルバムのB面こそピンク・フロイドの世界であったのかも知れない。

Photo_2 そして1971年6thアルバム「MEDDLEおせっかい」では、"Echoes"にて、彼らの共同作業は音響面の実験性、スペーシーな世界の構築、フロイド・メンバーそれぞれの個性の組み合わせによるサイケデリックな展開などと一つの完成となる。そして一方ではアコースティックな曲群も披露して、彼らの止まるところのない発展性も覗かせた。
*当ブログ”Bootlegから見る゜ンク・フロイドの真髄(4)最もバランスのとれた傑作か?「エコーズ」 2008.5.7、 (5)「エコーズ(その2)」 2008.5.13  参照 ”






Photo_3 ここに(1972年)再び映画サントラアルバムが登場する。7thアルバム「OBSCURED CLOUDS雲の影」だ。小品集の形ではあるが、ウォーターズの世界観が見え隠れして、更に彼らの持つ音楽の多様性を見せている。話題は少ないが、注目されるべきアルバムでもある。特に注目される曲はロジャー・ウォーターズにより作られた"Free Four"だ。自分の出生の悲劇をここに歌い込んでいる。"俺は死んだ男の息子だ。親父はたこ壺に詰めて埋められた"と、これは既に「The WALL」へのスタートが始まっている。
 このサントラ版は、コンセプト・アルバムとしての世界観はなく、そのためか逆に、この後に彼らの最も偉大なるコンセプト・アルバムに繋がって行くことになる。

(続く)

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