« 映画の話(4)  「大いなる陰謀 Lions for Lambs」 | トップページ | デヴィッド・ギルモア「狂気の祭典~ライブ・イン・グダニスク」 »

2008年10月12日 (日)

ピンク・フロイドpink floyd を動かした女達(1)

偉大なり、ウーマン・パワー

 Photo
 
若き少年達が一つの夢を見て結束したグループも、それぞれが成長し家庭を持つ事になると、当然お互いの生活の中から異なった因子も生まれてくる。
 特に女性関係は重要なポイントであったことは、ビートルズその他多くのバンドでみられるように、ピンク・フロイドも例外ではない。彼らも大きな影響を受けながらぎりぎりのバンド・メンバーとしての協調を保ちながら、ロックの道を追求して行くのだった。

■リビー・チィスマン   

 
なんと言っても、ピンク・フロイド結成時のシド・バレットは輝やいていた。その当時のシドのガールフレンドがリビーだ。
 奇才をはなったシドのバックで若き青春の一時をロックとして形成して行く力になったのは間違いない。
 しかしそれも短期間での関係で幕を閉じた。

■リンゼイ・コーナー  Lindsay Corner

Sydlindsay4
 彼女はピンク・フロイドが軌道に乗った頃のシド・バレットと同棲していた。
  シドの当時のサウンドを地で行くサイケデリックなファッションにシドと共に身を包み行動していた記録がある。若きエネルギーをそうした感覚に投入し、ピンク・フロイド・サウンドを助長させた因子となっていたようだ。
 彼女はどちらかというと控えめであり性格のいい女性と言われ、シドを支えた。
 しかしその後の別れについては詳細は不明。当然シドの生活への正常なる姿がみられなくなることによって、破綻したであろう事は想像に難くない。


■メアリー・ウォーターズ
 Mary Waters(1913~)

Roger20waters スコットランド出身でロジャー・ウォーターズの母親であり、父親の戦死(ロジャーの生まれた直後に出征し戦死)で父を知らない第3子のロジャーを可愛がり、又兄弟3人には正しい教育をしたといわれている。
 彼女は学校の教師であり、又左翼主義者であった。少なくともロジャーがピンク・フロイドの成功により金銭的には恵まれた時にも、プロレタリア生活者の中に拠点を構えたという事の原点であったのであろうし、反戦思想にも大きな影響を与えたのは容易に想像できる。
 又、彼女の親友の息子がストーム・ソージャーソン(ピンク・フロイドの評価の高いアルバム・カヴァー・デザイン担当者)である。
 彼女は近年のロジャーの話では90歳を過ぎて健在という様子であったが、果たして現在は?。
(追記: この記事記載時は健在であったが、2009年に96歳で亡くなった)

■ジュリエット・ゲイル  Juliette Gale

 ウォーターズ(ギター)、ライト(ギター)、メイスン(ドラムス)という布陣で結成されたピンク・フロイドの前身6人バンド”シグマ6”。そこにはクライブ・メットカーフ(ベース)、ジュリエット・ゲイル(ヴォーカル)、キース・ノーブル(ヴォーカル)がいた。

Tumblr_o0ca02ig0c1rtx8x1o1_500 当時リック・ライトと同棲していたのがジュリエット・ゲイルで、後にライトと結婚することになりバンドを辞める。その当時ライトはギターからキー・ボードに変わるが、工芸学校を成績不良で退学させられて、ロンドン音楽学校に通う。こうしてジュリエットに支えられ、ライトのキー・ボードが形成されて行く。ウォーターズもギターのボブ・クローズが入って、リード・ギターからベースに格下げされた。当時シド・バレットも加わった。最終的にはボブはシドと衝突して去り、ロジャー・ウォーターズ、シド・バレット、リック・ライト、ニック・メイスンの四人バンドとなり、バンド名も”ピンク・フロイド・サウンド”となるのだ。
 ライトは彼女との結婚生活の中で、かなりの影響を受けている。それはライトの消極的な因子に対しての彼女の後押し(むしろ気合いを入れられたと言ったほうがよいのかも)が、相当に力になっていたと思われる。しかしアルバム「炎」の後には、二人の間には次第に溝が深まり、「アニマルズ」を経てそして「ザ・ウォール」作成時においては離婚騒動となり、ピンク・フロイド活動にライトはほとんど貢献できない状態に落ち込む。
 まさにその時は、ピンク・フロイドもロック界はパンク、ニュー・ウェーブの嵐のまっただ中で終わりの時とも言える状態に沈下しており、ロジャー・ウォーターズが奮い立って一意専心進路を探っていた時でもあった。そんなバントの危機的状態にもかかわらず、当時の全く無気力で協力のない役に立たなかったライトをみて(もっともライトはウォーターズの感覚にはついてゆけなかったこともあった)、この時既にウォーターズは彼を切ることを決意したのだ。そしてそれは「ザ・ウォール」で現実のものとなる。


リンディー・ルッター Lindy Rutter

Lindy_mason_2
   ピンク・フロイドの本格的始動から1980年までの全盛期に、彼女はニック・メイスンと結婚し、しっかりと支えていた(1968-1980)。特に「狂気」の成功で、ロンドン市内にそれなりの住宅を持ち、かなり充実した生活をしていた。そして二人の間には、Chloe と Hollyの二人の娘が生まれた。
 しかし「ザ・ウォール」の作成から完成してのライブ・ツアーの頃、彼の活動はかなり低下し、ウォーターズから見放されかかっていたのは、1980年に離婚していることをみても、家庭的にも不安定であったと想像される。それはライトの離婚騒動の直後でもある。
   しかし1980年にメイスンは二番目の妻としてアネッテ・リントンAnnette Lyntonと結婚する。その後は「ザ・ファイナル・カット」でも取り敢えずはピンク・フロイドとして活動できたのは、新しい出発があった事によったのか。

■ジュディ・トリム Judith Trim(1943-2001) 

    女性は偉大なる支配者であるとある人は言ったとか言わないとか?、そうした強さと影響力を持った女性である。それはさておきピンク・フロイドが、新しい出発の契機となったアルバム「原子心母」の頃、ロジャー・ウォーターズは彼女と結婚していた(1969年~)。

Judytrim  彼女は極左翼のトロッキー派で、ウォーターズには相当の影響をもたらしたと言われる。
 当時それなりの収入もあったフロイド・メンバー、そのリック・ライトは父親になっており、メイスンも結婚して共にロンドン市内に住宅を購入し生活。しかしウォーターズはアイリントンのプロレタリア階級の住む地に居住し、貧困層に住宅を提供するという活動も行っている。当時のジャーナリストは、ロック・スターがそんなわびしい環境を選んで住んでいたことに驚いたと記されている。更に社会主義者としての行動に理想を持ち、常に現在の自分の生活スタイルに矛盾を感じていたようだ。
 ロジャーは彼女との間に子供を熱望したが、願いは叶わなかった。そして次第に二人の関係は破綻に向かい1975年離婚。
 その後彼女は自力で陶芸家としての人生を歩み、多くの実績を残すという力強い女性であった(2001年乳癌のため死亡)。

 更に彼らのピンク・フロイドとしての活動の中で、諸々に関わる女性の登場をみるが、かなりの影響力を発揮することになる。(続く)

|

« 映画の話(4)  「大いなる陰謀 Lions for Lambs」 | トップページ | デヴィッド・ギルモア「狂気の祭典~ライブ・イン・グダニスク」 »

音楽」カテゴリの記事

ROCK」カテゴリの記事

ピンク・フロイド」カテゴリの記事

ロジャー・ウォーターズ」カテゴリの記事

デヴィット・ギルモア」カテゴリの記事

Progressive ROCK」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ピンク・フロイドpink floyd を動かした女達(1):

« 映画の話(4)  「大いなる陰謀 Lions for Lambs」 | トップページ | デヴィッド・ギルモア「狂気の祭典~ライブ・イン・グダニスク」 »