問題書

2019年1月 8日 (火)

平成の終わりは平和の終わりでは困る? 2019年米国と日本の不安

「平成の最後の年」の始まりに・・・・・平成は何だったのか?

 新しい年を迎えてようやくここに来て新年の騒ぎから一段落。ふとこの新元号(年号)年の前途に想いを馳せると、何故か不安というか落ち着かない気分になるのは私だけであろうか。
 明治以来の「一世一元の制」による「平成」も、平成天皇の退位することから始まった歴史的意味論。”平成明仁天皇(1933-)は歳を取った、そして国民の象徴から降りる”という意味は何なんだろうかと、つまり「象徴論」にもふと疑問を持ちながらのこの日本の歴史に一つのけじめが付けられようとしている平成31年。

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 しかしそれ以上に世界は激動の様相を呈してきた。

① 米国トランプ政権の世界攪乱 

Donald_trump2w 歪んだポヒュリズムPopulismからの自国第一主義の成せる技。国際機関・機構の無視。大衆の欲求不満や不安を煽ってリーダーとしての大統領の支持の源泉とする手法が愚行にも行われれば、民主政治は衆愚政治と化し、一般庶民大衆のエネルギーは自由の破壊、集団的熱狂に向かってしまう危険性。
 
ナショナリズムNationalismの台頭を促進させるに至る。
 
リベラリズムLiberalism(啓蒙思想から生まれた近代思想の社会自由主義Social Liberalism)に相対する新自由主義neoliberalismの負の部分の露呈。
 
リバタリアニズムLibertarianism(古典的自由主義=自主自立、福祉政策の否定、所得再分配製作の否定)の蔓延。
 
米中貿易戦争=米国派遣の維持

 「新自由主義neoliberalism」
 特にこの「新自由主義neoliberalism」をよく知る必要がある。1979年英国サッチャー首相、1981年に就任したレーガン大統領以来の英・米国における主流的経済思想であり、日本に於いても小泉内閣がその顕著な姿を示したのだが、それは安倍内閣に繋がっている。
 価格統制の廃止、資本市場の規制緩和、貿易障壁の縮小などの下に、特に民営化と緊縮財政などの政府による経済への影響の削減などの経済改革政策であったものが、 国家による福祉・公共サービスの縮小(小さな政府、民営化)に繋がり、大幅な規制緩和、市場原理主義の重視は、それによって社会の一部の構成員への富の集中と貧困層の増大を生む結果となっている。

 世界的レベルで見ると、資本移動を自由化するグローバル資本主義は新自由主義を一国規模から世界規模まで拡大したものともみられている。しかしそれが丁度日本の平成時代に、あっと言う間に世界の主流となったのだ。しかしその結果、それに極端に相対する流れを生むきっかけにもなってしまった。”グローバリゼーションによって加速する人の移動や外国の文化的影響を排し、国民国家という枠に回帰しようという志向性をもつ思潮”が反グローバリズムであり、なんとこの数年急速に成長している。トランプ以来顕著となったのは、反EU(ヨーロッパ連合)や反自由貿易、反移民などを掲げる思潮・イデオロギーや政党などが世界各地に台頭したことだ。そして急速に勢いを得ている。これらの思潮は、ある意味では歪んだポピュリズムとしての性格を示してきたこのトランプ時代の産物でもあると言えるのか。

 しかし米国にはこの新自由主義は決して崩れない基調がある。そしてトランプの出現は何をもたらしているのか、彼の政策は国境を越えて経済活動拡大し利潤極大化を目指す多国籍企業とは別ものであり一見”反新自由主義”のように見えるが、それは”反グローバリズムを装った新自由主義に自己中心主義の上乗せをしているに過ぎない”との見方が正しいようだ。現に合法的移民は積極的に受け入れているし、不法移民は徹底的に否定している。"征服民族である彼の言うオリジナル米国人"の存在と利益を最優先しているだけだ。それにしてもあの暴言、不節操と言う表面(おもてづら)とは別に、国民の支持を得るアメリカ的何かが確実に存在している。それを我々は知らねばならないのではないか。

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 このところのミュージック界では”トランプ批判”が目立つ。先陣をきったロジャー・ウォーターズの2018年12月までの二年間に及んだ世界ツアー「US+THEM tour」上左)、 ラテン・アメリカの血の入ったインドラ・リオス・ムーアの叫びのアルバム「CARRY MY HEART」 (上中央)、そしてここに来てのアントニオ・サンチェスのアルバム「LINES IN THE SAND」(上右)の登場、更にあのアイドル・テイラー・スウィフト(右)ですら公然と批判を述べた。これらのこのようにトランプ批判の流れと犠牲になっている人々への想いを寄せる心は強まっている。これは何を物語っているかは自ずから知れるところである。

800pxpresident_barack_obama_2 更に興味あることはバラク・オバマ元米国大統領が、アメリカの音楽チャートの上位に初登場したニュースだ。彼の名前は俳優でシンガーのクリストファー・ジャクソンChristopher Jacksonの曲「One Last Time (44 Remix)」に、ゴスペルシンガーのベベ・ウィナンスとともにフィーチャーされ、曲中には彼が、初代米国大統領のジョージ・ワシントンの辞任挨拶を引用した演説が盛り込まれている。ビルボードのHot R&Bソングチャートで急浮上したのである。このよって来たるところは・・・と問う事も、米国の良心を知る上に必要だ。

② 安倍政権下の諸問題

 あの昭和・平成時代では歴代総理の中でトップの圧倒的人気のあった小泉純一郎以来の「新自由主義neoliberalism」、つまり”小さい政府、規制緩和、社会保障費圧縮などの構造改革”と”市場原理主義の重視をする経済改革政策”は続いて来た。
 これは国家による富の再分配を主張する自由主義liberalismや社会民主主義Democratic Socialismと対立する面を持っている。そしてその性格はこの安倍時代に明確になり、その結果もたらしたものとして、格差の拡大、国富は1%の富裕層と大企業に集約が進んでしまっているのではないだろうかという批判に耐えられるか。

Photo_2  ▶誰もが認める安倍総理の独裁化、中央官庁エリート社会の墜落、企業の経営倫理の崩壊
 
安倍自民党のおごりと不誠実
 
官僚の文書改ざん・財務省の道義崩壊と腐敗
 
御用マスコミ、そしてテレビを代表する国民総無関心化路線へ
 
国防費の増大 
 
外国人労働者はまさか現代の奴隷制度なのか
 
対北朝鮮、対韓国の日本政策の危険性
 
北方領土問題と平和条約の意義
 
異常とも言える日本の自然災害
 
捕鯨問題と国際機関からの脱退の意味するもの
 
沖縄基地問題と対米関係
 
学問と教育の軽視、教育者・研究者環境の劣悪化

 まだまだ取りあげるとキリがない。新元号に期待して希望的に今年は全てが動く年であることは事実だが、しかし米国にそして日本に問題が山積みされている。さらに世界的には欧州には英国(EU脱退)からイタリア(政治的混迷)、フランス(反マクロン経済政策運動)、ドイツ(リベラル・メルケル首相の支持低下と新興右翼政党「AfD」)をはじめ新たな問題が山積みとなり、中近東、中国、東南アジア、南アメリカのどこをみても戦後の反省から築いてきたものの崩壊が進みつつある。
 少なくとも日本に於いては・・・・意外に大切なのは、ある人がいみじくも言った”この現実にみる西洋思想の弱点が浮き彫りの中では、原点の東洋思想の良い点に今こそ目を馳せ、極めるところ儒教の真髄である「仁・義・礼・智・信」ぐらいは基礎に持って動くべきだ”まさにそうあって欲しいものである。

(取り敢えず・・・・・)
Photo_3 こんな時代に間違いのない道を歩む為に今必要な事は、日本の昭和時代の戦争の反省からの再スタートとその経過から、平成の30年をしっかりそれなりに分析し、これからの時代を評価出来るものを持つ事だと思う。

 実はその意味に於いても、学者をはじめ歴史研究者の語ることは勿論それなりに重要であると思うところだが・・・もう少し砕けた話としては、昨年友人から紹介された本がある。それは右の赤坂真理という1964年東京生まれの女流作家の講談社現代新書「愛と暴力の戦後とその後」(2014年第一刷発行現在第11刷)(→)である。私からすると日本の戦後の歴史の一大事件「60年安保闘争」に関して全く関わっていない人達の書き物は評価が難しいところにある思って来た。しかし現在60年安保闘争に関わった人間は少なくとも75歳以上といってよい。早く言えば後期高齢者に当たる。今や昭和の時代の、平成の時代の若い人達こそ、現状の日本をリードする人間である。その為に現状を知るためにも日本の歴史を知り語るべきと思う。そんな時にこのような事を書く人間が居るということを含めて興味深く読んだ本であるので取りあげた。

(その他の参考書)
「新自由主義の自滅 日本・アメリカ・韓国」
    菊池英博 著            文春新書 2015
「アベノミクスの終焉」
    服部茂幸 著            岩波新書 2014
「新自由主義-その歴史的展開と現在」
    デヴィド・ハーヴェイ著      作品社   2007
「新自由主義の復権-日本経済はなせ停滞しているのか」
    八代尚宏 著            中公新書 2011

(試聴)

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2018年7月 2日 (月)

(友人から勧められた本)與那覇 潤 「知性は死なない」

平成はもうあと少しで終わる・・・・リベラルの凋落
こんな時代で終えて良かったのか?

 雨の6月末に読んだ本です。
 私はなかなかこの手の本を自分で見つけて読むと言うことが苦手。それは普段は目的が偏って決まっている為にその方面に沿った本しか選べない為です。
 しかし有り難いことにこうして本を薦めてくれる友人が居るということです。そんなおかげで、最近はかなり多方面の本に接しています。

與那覇 潤 「知性は死なない--平成の鬱をこえて
(発行者:吉安章  発行所:(株)文芸春秋 / 2018 )

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 この著者與那覇潤とは私は知らなかった。彼は「日本の存在」ということにかなりの意欲で対峙していた東京大学教養部卒で、同大学院総合文化研究科博士課程を経て(2007年)、愛知県立大学日本文化学部准教授であった。
 この書は、「双極性障害(躁鬱病)」という精神疾患に襲われ彼が、無能化した状態からの再生、そして平成を振り返り現在の状況に彼らの「知性」は何故崩壊と言えるに状態に至ったかを問いながらも、「ポスト平成」にやはり”光”を求める書である。

W_2 與那覇氏は1979年生まれと言うから、私から見れば失礼だがまだまだ若い青年と言える年頃。そして生きてきた時代は主として「平成」である。だから「平成」こそ思想と人格形成の時であった訳で、そんな目から見た貴重な「平成」は何であったかと思い残す気持ちは大きいと思う。それは私のような「昭和」の人間からすれば「昭和」の激動をどう生かしてくれるかとむしろそうした目で見てしまうのであるが。

■ 精神疾患からの再生
 與那覇氏が精神的に調子を崩すに至った過程は主として大学という場であったと思うが、ちらっと見える大学人批判らしきところからも「平成の流れに迎合して行く知性とは?」と言う懐疑心の世界がみえている。彼の精神病下のやるせない悲哀感も伝わってくる中で、療養生活(障害者との共同生活も含めて)下で、今までに経験の無かった世界を眺めるようになったこと、「言語」と「身体」という二つの視点からリベラルの凋落を考察するところに至る話も興味深い。

I0455_03_01a■日本のリベラルの破綻と知性の崩壊
 この書では「平成の年表」も「日本編」「海外編」と分けて記しているが、日本に於いては、細川非自民政権発足(1993)から、村山自社さ政権(1994)、自民・公明連立与党(1999)、小泉純一郎政権(2001)、第一次安倍晋三内閣(2006)、民主党政権(2009)、第二次安倍内閣(2012)と、やはり30年となると大きな変化があったとも言えるが、この過程の中にリベラルの破綻と知性の崩壊の歴史をみることになる。それは昭和の「60年安保闘争」の念頭に置いての「集団的自衛権に反対して政権を倒す」という人たちの運動は、知識人も含めて完敗した現実。

■ コムニズムへの期待は?
 そして世界情勢では冷戦以降の資本主義と共産主義、宗教、民族と広く分析する。マルクスのコムニズムCommunismを「共産主義」と言うので無く「共存主義」と説くところに至る過程も興味深い。

 これは私が薦められて読んだ書であるが、多くの人に読んで欲しい書でもある。

(最後に280頁から)
 私たちはのこりわずか一年で、新しい元号を迎えます。しかしそれがどこまでほんとうに「あたらしい時代」となるのかは、私たち自身がどのように、古い時代をふりかえり、その成果と課題を検討して、なにを残しなにを変えて行いくと決めるのか--すなわち、どのように「知性」をはたらかせるかにかかっています。

(與那覇潤 著書)
『翻訳の政治学 近代東アジア世界の形成と日琉関係の変容』岩波書店、2009年
『帝国の残影 兵士・小津安二郎の昭和史』NTT出版、2011年
『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』文藝春秋、2011年
『日本人はなぜ存在するか』集英社インターナショナル、2013年
『史論の復権』新潮新書、2013
『知性は死なないー平成の鬱をこえて』文藝春秋、2018


(参考映像)

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2011年6月 7日 (火)

マーラー Gustav Mahler の世界(5) : 没後100年記念として・・・・

語ることに尽きないマーラー~特にユダヤ人として~

 私にとっては、ショスターコーヴィチそしてマーラーというのは一つのテーマでもある。両者はここで何回か取り上げて来たが、そのマーラーGustav Mahler は1911年2月に連鎖球菌敗血症により亜急性心内膜炎を発症し重体となり、5月にはアメリカ(1910年に渡米していた)を離れパリで治療を受け、その後5月にはウィーンへ戻り、レーヴのサナトリウムに移され、状態悪化で死亡。50歳であった。
 そして今年2011年はマーラー没後丁度100年という年である。それを記念して諸々の企画がある中で、今ここで改めてマーラーを見つめてみようという機運も高まっている。そんな時に私が興味を持ったマーラー特集本があるので紹介しよう。

Photo 文藝別冊(KAWADE夢ムック)「マーラー : 没後100年記念 総特集 」 河出書房新社 2011.4.30発行

 マーラーの特集本であるだけに、総曲解説・CD評などからマーラー年譜などそれなりに一応網羅している。ただし、データなどはかなり大まかで、それほど期待しない方がよい。
 ただ私の興味をひいたのは、ここに12人の各分野の著名人のエッセイが載っていることだ。むしろこうしたところがこの本の読みどころであるといっていい。

 以前に紹介した音楽の友社の「作曲家・人と作品シリーズ:マーラー」(2011.1.16 マーラーの世界(2)参照)の著者の精神医学者村井翔氏は”マーラーの精神分析”を、フロイトとの出会いから始まってマーラーの心理状態を作品と対比して書いている。
 又、必ずマーラー論となると妻のアルマが登場するわけであるが、これに関しても音楽評論の加藤浩子が”ファム・ファタルか触媒か”と題して彼女をとりまく男性群を分析している。(触媒という発想が面白いが・・・)

 常にマーラーの音楽のよって来るところを語るとなると、必ず彼のトラウマ論が出てくるのであるが、子供、男性、夫ということでは母親との関係、妻との関係が語られるし、音楽の世界としてはブラームスやヴァーグナーそしてブルックナーなどが語られる。

Gustav_mahler_1909_2  しかし、マーラーにとって基本的に非常に重大であったのは、やはりユダヤ人としての宿命であったと思う。そしてそれについては、ここでは・・・・・

末延芳晴
”マーラーにおけるユダヤ性と普遍共同性~失われた「大地」を求めて”

        ・・・・というエッセイが非常に面白かった。
 ここでは、マーラーが当時オーストリア領のチェコ近郊のベシュト村(現チェコのカリシュチェ)に、ユダヤ商人のベルンハント・マーラーとその妻との間に、2番目の子として生まれたことからその宿命は始まることから書かれている。つまり人間が人間として生きていく上で不可欠な、言語、宗教、生活習俗、国家、市民権といった普遍的共同性を奪われたところで生きていく運命として・・・・。
 そうした環境下で生きて行く道は三つしかないと語る。
 ①一つは、徹底的に特殊共同性を背負らされた人間としてそのその特殊性を際だたせること。しかしそれはゲットーという檻の中に閉じこめられ、忌避と蔑視、差別の対象として生きていくことを強いられる。
 ②もう一つは、可能な限りユダヤ的な記号性を消し去る。存在する国家共同体に同調・同化して生きる。マーラーはこの道を選んだ。それは罪責意識、深刻な内面的分裂と葛藤に苦しみ悩むことになる。
 ③ところが、第三の道として、人間を分断する現実世界の壁を、言葉や思想や音、さらには知の力によって暴力的に絶対突破し、そこに開けたアナーキーな、しかし自由で可塑的な時空間に、宗教であれ、思想や哲学であれ、芸術であれ、それまで存在することのなかった、全く新しい価値の普遍性を体現した世界(トポス)を対抗的に創造すること。全く新しく独立した絶対普遍共同的世界を創り上げる。これはイエス・キリストやカール・マルクスの世界であり、それをマーラーは目指したのか(交響曲「巨人」、「復活」などのよって来たるところからみて)?。
 こうして著者はマーラーのユダヤ人としての音楽世界における格闘の分析を試みている。(参考:著者末延芳晴は1942年生まれ、東大文学部卒、ニューヨークに25年在住、米国現代音楽批評、帰国後文芸評論も。著書「永井荷風の見たあめりか」、「森鴎外と日清・日露戦争」など)興味あるエッセイであった。

 マーラーは1911年に没したために、その約20年後のナチスのユダヤ人迫害(1933年頃から)をみてはいない。ホロコーストholocaustの悲劇は体験していないが、それに進みつつある世界の中にいた。彼が音楽の世界で、指揮者として、作曲家として何かを超えようとしていたことは、死後100年を経た今日の彼の音楽や世界観の研究が続いていること自体がその証明であると言っていいのであろう。

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(花の季節 : カルミヤ(白) = 我が家の庭から)

 
 
 

 

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2011年5月14日 (土)

冷静に読めるか?広瀬隆著「福島原発メルトダウン」(朝日新書)

”津波に暴かれた人災”を訴える

Photo 朝日新書「広瀬隆著 / FUKUSHIMA福島原発メルトダウン」朝日新聞出版 2011.5.30第1刷発行

 あの3.11東日本大震災から2ヶ月経過した。日本人の忍耐力が今復興に一歩一歩進んではいるが、そこに立ちはだかる最大の問題は、あの福島第一原発の事故である。戦後の復興に甘んじていた日本において今最大の危機といっても過言でない。

 著書「東京に原発を!」で話題になった広瀬隆氏の最も新しい著書がこれだ。「東京に原発を!」は、原子力発電をテーマに逆説を展開した問題の書。政府も電力会社もそんなに原発が必要かつ安全というなら大電力消費地である東京の、西口公園に原発を誘致しようと提案する皮肉を述べながらの警告の書。
 その後も私は全てを読んでいるわけではないが、広瀬氏は「危険な話」「原子炉時限爆弾」などの書があり、原子力の危険を訴えてきた人だ。
 遂に起きてしまった今回の原発事故、それは彼にとっては何ら不思議なことでないと力説する。

Photo_2 この書「福島原発メルトダウン」は、左のような内容だ(クリック拡大)。
 ”序章”では、大震災と原発事故は、同じ地震によって起こった一連の出来事のように見えて、しかしはっきりと異なる二つの現象で、これを峻別しなければなりません。その根本にあるものがまつたく違うからです。・・・地震や津波そのものによる天災は避けられないということを私たちは納得できなくても、受け入れるしかありません。これは日本列島に住み着いた日本人の「宿命」といえます。しかし、福島第一原発の大事故は、天災でも宿命でもありません。この悲惨な出来事は、悪意によって引き起こされた人災です。人知のおよばない自然災害に比べれば、はるかに容易にに予測でき、この大きな危機をあらかじめ回避できた出来事なのです。と、訴えることから始まる。つまり、原発事故とそれに伴って起こっている災害は人災であること、そしてこれからも起こりうる同様の事故を回避すべくこの書をあらためて書いたことを述べている。
 
Photo_3  第一部は、東京電力、政府、保安院・原子力安全委員会、原子力関係の学者を含む専門家の怠慢を、原発事故の内容分析をしながら指摘している。
 第二部は、巨大地震の激動期に入った日本においての「第二、第三の福島」を回避すべく各地の原発の実情を訴える。又放射能の危険性に医学的分析も含めて警鐘をならす。
 終章は、電力エネルギーの今後の対策への提言
 広瀬氏の今回のこの書はこんな内容になっている。


 さて、話の展開はがらっと変わるが、実は私がこのブログでも過去に紹介してきた「硫黄島の砂」とか「赤い河」という映画があるが、これの主演はアメリカの最もタカ派といわれるジョン・ウェインである。彼は肺ガンで何度かの手術を受けながら、ガンを克服したかにみえたが、1979年6月11日ガンの為この世を去った。
 そのジョン・ウェインの死に疑問を持ったこの広瀬隆氏は、1982年に・・・・・・・・・・
「ジョン・ウェインはなぜ死んだか」(文芸春秋社)という書を書いている。

Photo_4 この本(左)は、映画盛んなりし1950年代のハリウッド・スターを総なめにして、それぞれの映画活動を整理し、そして最後の死に至らしめた疾病を調べ上げての一つの結論へ導いた労作であると同時に、やはり警鐘の書である。
 
 もちろん主たるテーマはジョン・ウェインであるが、彼が肺ガンであることが判明したのは1964年。あの痛快西部劇「リオ・ブラボー」の公開5年後である。
 そしてこの書では、特に注目しているのは1956年公開の映画「THE CONQUEROR 征服者」だ。この映画は当時私は娯楽ものとして観たのを覚えているが、蒙古人のジンギス・カンの物語で、痛快活劇映画といったぶるいのもの。
 この映画の撮影はハリウッドから東へのユタ州にて、砂漠の中で1954年に行われた。熱風の吹き荒れる中ロケーションは敢行され、それはまさに地に火がはいったような地獄の暑さと、大砂塵が舞い上がる中での重労働であったようだ。制作はあの有名なハワード・ヒューズで、当時で20億円もかけての大作であった。
Photo_5  そしてこの映画は砂漠の中で壮烈な死闘をくり広げるシーンが目玉で、役者たちは馬から転げ落ち、砂ぼこりを胸深く吸い込み、全身ドロまみれにならなければ監督からOKがもらえなかった。当然主演のジョン・ウェインも同じであったし、監督、映画製作スタッフも同様に砂まみれになって格闘したという。
 さて、そのユタ州の砂漠とは・・・、当時この隣のネバダ州では頻繁に核実験が行われており、その死の灰が実は砂に堆積していたことが後に証明されたのである。

 ジョン・ウェインが肺ガンを発見されたのは、それから10年後。そして監督のディック・バウェルも1960年胸と首のリンパ腺にガンが見つかった。又ジョン・ウェインの相手役の人気女優スーザン・ヘイワードは、1971年体の数カ所のガンがみつかり、1974年に亡くなった。
 こうして、ユタ州撮影隊には不吉な噂も語られるようになったようだが、事実近郊の街でも白血病の発病が異常に多い事実も浮かび挙がった。
 こうした事実をこの著者広瀬隆は問題として取り上げたのである。死の灰も、かなりの量がジョン・ウェインの場合も肺に沈着したことは否定できない。彼の肺ガンとの因果関係は神のみぞ知るということであるかも知れないが、こうした事実をみるにつけ、放射能汚染の未知なる怖さを訴えているのだ。

 今回の福島第一原発事故においても、こうした問題にも真剣に対応することが必要であろう事は言うまでもない。そして第二第三の福島原発事故を未然に防がねばならないことは、今こうしている我々の任務であることを知るべきである。今何を成すべきか・・・・・。
 

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2010年3月12日 (金)

ショスタコーヴィチの交響曲(7) 取り敢えず理解のための参考文献(2) ローレル・ファーイ著書など

激動のソヴィエト社会に生きる音楽芸術家の生き様

 ショスタコーヴィチを知ろうとする流れは、一つにはソヴィエトという国の歴史的内情を知ろうとする事や、一方ショスタコーヴィチが何故あのスターリンの文化粛清を逃れられたかということなど、世界の歴史の中でも類をみない激動期であり他国にはない社会を経験した音楽家としての興味などが重なり合って今日に於いても激流に近い。

Photo そうした中で、注目度の高いのは前回紹介したヴォルコフの「ショスタコーヴィチの証言」であり、そしてもう一方は現在の日本では左のファーイ(フェイとも言う)の著書であろう。
ローレル・E・ファーイ著、藤岡啓介・佐々木千恵訳「ショスタコーヴィチ ある生涯」(改訂新版)アルファベータ発行 2005年

 なんと言ってもファーイはヴォルコフの「証言」の真贋説に関しては、決定的な役割を果たした。つまりある意味での捏造を証明し決定づけた研究家である。
 しかし、この著書を読んでも解るように、ショスタコーヴィチの姿勢に対して、ヴォルコフが言わんとしている”御用音楽家ではない姿、反体制派的創造活動”を否定しているわけではない。この著書を見ても資料が膨大である。その分析にも、ショスタコーヴィチが非常に筆まめであって、現在も多くの記録や、手紙などが残っていることが幸いしている。
 この著者ファーイとは、米国のロシア・ソヴィエト音楽研究家で、1971年以来ロシアを何度か訪れ研究を続けているという。コーネル大学哲学博士号取得している人物だ。
Photo_3(左写真:右よりショスタコーヴィチ、ムラヴィンスキー、ロストロポーヴィチ) そしてショスタコーヴィチ自身の書簡、当時の新聞記事、彼を知る人の批判や日記など、更にコンサートのプログラム・記録などの膨大な資料を下に検証し、この作曲家の実態に迫ろうとしている。(本文350頁に対して、資料は150頁に及ぶ)
 特に第4番の取り下げから第5番の成功までのショスタコーヴィチの複雑な心情がひとひしと伝わってくる。全世界未体験の共産主義社会建設下における全体主義的なスターリン大粛清という社会において、文化活動者にとっての恐怖の実態。そしてここには芸術家としての求めるもの、社会主義リアリズムのよって求めるもの、これら相容れないと思われる事情にも、それに対して真摯に貫いた彼の心情が読み取れるのである。

Photo_2  日本人によるショスタコーヴィチ研究も盛んで、幾つもの著書があるが、非常に纏まってしかもショスタコーヴィチ音楽解説から生き様まで、丁寧にしかも解りやすく扱った著書がある。
千葉潤著「作曲家・人と作品シリーズ:ショスタコーヴィチ」音楽之友社 2005年

 この著書は、既に発刊されてから5年を経過しているが、私にとっては、近年非常に参考になったものである。私のように音楽というものに精通しているわけでもなく、又楽器の演奏する能力もなく、単に聴く者として感動したり、心が惹かれたり、そうしたところにジャンルを問わずアプローチしているものにとっては、こうした解説書は貴重である。
 ソヴィエト社会の情勢にも研究の跡がみられ、その中でのショスタコーヴィチの占める位置をも探求している姿があり、この音楽之友社のクラシック音楽ガイド・ブック・シリーズとしては、なかなか内容のレベルも評価に値すると思う。確かに取り敢えずショスタコーヴィチを知ろうとしたら、最も第一に接して良いと思われる書として薦められる。
 勿論、作品一覧、年譜なども付いている。ここでも、交響曲第4番、第8番、第10番の重要性に言及している。やはりショスタコーヴィチの音楽の奥深さと芸術性と人間性との関わりが興味深い。

Kgb 更に余談ではあるが、ショスタコーヴィチそのものの音楽芸術論とは若干離れるが、ソ連というものを少しでも知る上には興味深かった本を紹介しよう。

①アンドレイ・イーレシュ著、瀧澤一郎訳「KGB極秘文書は語る~暴かれた国際事件史の真相」文藝春秋 1993年
②ヤコブレフ、シュワルナゼ、エリツィンら著 世界日報外報部訳・編「”苦闘”ペレストロイカ~改革者たちの希望と焦り」世界日報社 1990年

 
ソ連に於ける「雪解け」から「ペレストロイカ」に至る経過から、その国の実情に少しでも迫ろうとする書である。①は、国家体制が崩れるときに流出した秘密資料にもとづいて、スターリンのまともな死に様でなかった事件などを始め興味深い。②は、ゴルバチョフ書記長のペレストロイカ路線と社会主義体制との相容れない姿を実際の重要人物の声をソ連メディアから集められたもの。ソ連の実態に迫る。この年ベルリンの壁は崩壊した。

 ソヴィエト社会主義社会での世界的作曲家ショスタコーヴィチの交響曲を取り上げて、私自身の興味の歴史や、ショスタコーヴィチの生き様にも触れてみた。これからも更に愛されるであろう彼の音楽に喝采を浴びせつつ・・・取り敢えず締めとする。

 

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2010年3月10日 (水)

ショスタコーヴィチの交響曲(6) 取り敢えず理解のための参考文献(1) ソロモン・ヴォルコフ編書など

ソヴィエト社会からのメッセージと人間としてのメッセージと・・・

 ショスタコーヴィチの交響曲を知ろうとすると、彼ほどその時代考証が必要な作曲家もいないのではないか?。しかし、もともと私自身はショスタコーヴィチは、最も誰もがそうであろうと思うところの”第5番”から興味と感動を持つことになったが、それは付けられている「革命」という俗称に興味を持ったからでなく、たまたま当時のラジオ放送でこの曲を耳にして興味を持ったに過ぎない。そして何とかLPを手に入れたのは1960年代である。
 先日紹介したアンチェル指揮ものは、ようやくステレオ盤も定着してきたときのLP盤である。ローカルな地にいた私にとっては、ようやく手にした記念盤でもある(それでもその後に手に入れたムラヴィンスキーの「第11番」はモノラルである)。若き私にとっては、あのダイナミックな最終章の締めくくりには圧倒されたものだ。
 こうしてショスタコーヴィチの世界にのめり込んでいった訳であるが、当時の私のショスタコーヴィチへの理解の原点は、それぞれのLP盤のライナー・ノーツが重要であった。

Photo  しかし、ショスタコーヴィチの解釈の難しさを本当に知ったのは、先にも紹介した1980年発行の・・・・・・
ソロモン・ヴォルコフ編・水野忠夫訳「ショスタコーヴィチの証言」(中央公論社)
・・・をみてからであった(当時かなり私も意識して購入したと考えられるのは、1981年6月2日と購入日が記してあることだ)。
 まさに衝撃であった。”ヴォルコフによるショスタコーヴィチの回想録”としてスターリン体制の恐怖、諸音楽芸術家の否定的回想には驚愕した。古くからのロシアの音楽芸術には評価をおいていた私であるが、ただ単にその一連の中でのとらえ方しかしていなかった訳である。しかしソヴィエトという世界初の社会主義国家体制における芸術・文化の存在の意義、そしてその環境下のショスタコーヴィチの活動について、初めて思いを馳せることが出来たのである。

 しかしその後、この「証言」の真偽に関しての多くの真贋論争が混沌とする中で、直後(1980年)にソ連で公刊されたグリコーエフ&プラテーク編「ショスタコーヴィチ自伝・時代と自身を語る」が反論に近い内容を展開したという(私は未読)。又その後分析において最も有力であると言われているローレル・フェイの論文がある(むしろ私は最近になって、このフェイ(ファーイとも言う)の著書に接することが出来た。次回に紹介したい)。

Photo_2 その後15年経て・・・・
「ショスタコーヴィチ大研究」(春秋社 1994 )
・・・・・をも手に入れている。
 この本は、森田稔以下十数名によるショスタコーヴィチの生涯についての解説や、曲の分析、時代の話題、関連キーワードの解説などなど多方面からのショスタコーヴィチに対してのアプローチがなされている。
 しかし、既に形が付いたと思われる「証言」の真偽なども含め、諸著者それぞれが決して統一されていない意見があるところもこの本の面白いところでもある。
 しかし、いずれにせよ、単なる御用音楽でないと解されるショスタコーヴィチの世界は、ソヴィエト社会主義革命、ナチスドイツとの戦争とあまりにも激動期の芸術として、その興味が沸くことと同時に評価が高まるところを知らない。

2005aug 更に10年を経て、ショスタコーヴィチ没後30周年を記念しての特集が、雑誌「レコード芸術 2005年8月号(ショスタコーヴィチ・ルネサンス)」でもなされた(左)。
 ここでも、多くの研究家による分析や解説がなされていて興味があった。
 巻頭言として亀山郁夫の”恐怖の自足と刻印”から始まって、後にショスタコーヴィチ研究に精をだしている千葉潤、工藤庸介の解説や、増田良介の曲評価や演奏アルバム紹介など・・・・かなりの充実である。
 いずれにせよ、ショスタコーヴィチの人生、社会環境、政治環境などなど我々には経験のないが為の余りにも理解が難しい点、更にベールに隠れた部分が多いと同時に、彼の創作した音楽の多様性も含めて、議論に事欠かないところが、今日までこうして多々語られる所以であろう。それはソヴェエト社会からのメッセージというところも察知しなければいけないし、又ショスタコーヴィチの人生からの人間的メッセージなのかもしれないし・・・。
(続く : 次回さらにもう少し参考文献を考察したい)

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2010年3月 1日 (月)

ショスタコーヴィチの交響曲(3) 第7番:彼の交響曲は墓碑なのか?(「ショスタコーヴィチの証言」は?)

最も物議を醸した交響曲第7番「レニングラード」

 ショスターコーヴィチ(かってそうであったように、私にとっては・・・・ヴィッチであるが、最近の記載から今回より・・・・ヴィチとする)の交響曲としては、最も佳境にはいるのがこの第7番ハ長調作品60「レニングラード」である。特に彼の書いた15の交響曲のうち、この第7と第8・9は戦時下にて書かれたものであり、当時の解釈から”戦争交響曲”として捉えられて来た。

Sym7 「Shistakovich: SYMPHONY no.7 LENINGRAD / Va'clav Neumann ・ Czech Philhamonic Orchestra 」 SUPRAPHON OB-7331~2-S 1976

 この指揮者ノイマンVa'clav Neumannは、私がショスタコーヴィチ交響曲に関心を抱いたLP盤の指揮者カレル・アンチェルがカナダに亡命した後のチェコ・フィルの後継者である。
 そして’70年代に偶然にも私が手に入れたLP盤の第7「レニングラード」は、このチェコ・フィルものであった。
 当時は、いわゆる解説どおりに、この交響曲は”第2次世界大戦におけるナチス・ドイツのレニングラード侵攻に対して、封鎖された900日に及ぶ市民の空襲と砲撃と飢餓とあらゆる物資の欠乏の中で死守した英雄的な攻防戦を描いたもの”として捉えていた。
 つまり第1楽章は、(戦争)不法の侵略を開始し、迫り来るナチス・ドイツ軍の恐怖が襲いかかりつつある情景。第2楽章:(回想)哀愁。第3楽章:(祖国の大地)祖国愛を表す。第4楽章:(勝利)戦争の犠牲者への哀悼の心と勝利宣言。と言った内容に感動しつつ聴いていたものであった。

Photo  しかし、1980年登場した
「ショスタコーヴィチの証言」(ソロモン・ヴォルコフ編、水野忠夫訳 中央公論社 1980 (左) 
・・・・・・・・・・により解釈は大きな変換を強いた。(私のこの本に記したサインを見ると、1981年6月に購入している)

 これはショスタコーヴィチ(以下ショスタコと略す)の友人であるヴォルコフが1971年から1974年までの間にショスタコと面会して、語られたことを纏め上げ、承認を受けたもの。内容からしてソ連おける出版は絶望的であることから、彼の死後に国外にて発表することを委託されたもので、ヴォルコフがアメリカに亡命して一冊の本として刊行したという。
 その内容は、ショスタコの交響曲は当時のソ連の特にスターリン恐怖政治に対する批判的性質のもので、決して当時強要された社会主義リアリズムを賛美して描いたものでない。恐怖におののきながら生死をかけて書き上げた交響曲をはじめ多くの作曲されものは、そうした社会に於ける人間の苦悩とその状況下から形成された人間の永遠の姿を描いていると言うものであった。

 こうした内容により、世界的にショスタコの評価に於ける論争が展開されたのである。特にこの第7番は、かっては戦時中の出来事を描いた標題音楽的なものとして捉え、その壮大な展開と纏まりが素晴らしく非常に支持者が多い反面、一方にはソ連の宣伝的なニュアンスに反感が持たれ、「壮大なる愚作」との評価も下されていた。
 しかし、この「証言」の出版により、この作品はナチス・ドイツのみならず、スターリンによるソ連政府の暴力に向かっての告発と、悲惨な中にも人間の敵はなにか?そしてそれに向かって敵に対する勝利のために力も生命も惜しまなかった同時代の人々の姿を書いたものとの解釈に至り、大きくショスタコ交響曲の評価が変わり、世界的にも多くの人によって演奏され、そして又多くのものの感動も呼ぶようになるのだった。

Stalin  この「証言」の中では、ショスタコ自身の言葉で”私の多くの交響曲は墓碑である”と記されている。そしてスターリン(左)の恐怖政治に徹底的な批判を繰り返す。”ドイツ・ファシズムのみならず、いかなる形態のファシズムも不愉快である”、”ヒトラーが犯罪者であることははっきりしているが、スターリンだって犯罪者なのだ”、”ヒトラーによって殺された人々にたいして、わたしは果てしない心の痛みを覚えるが、それでもスターリンの命令で非業の死をとげた人々にたいしては、それにも増して心の痛みを覚えずにはいられない”

 しかし、これに対して当時のソ連在住のショスタコと親交のあった人々は、”この「証言」は捏造されたもの”と主張した。一方、”ソ連在住の人物の発言は信用に値しない。著名な音楽家の亡命やソ連崩壊をみれば解るのではないか”という支持派もあり、二分してしまう。どうもその後、諸検証により「証言」偽書説に傾いてはいるが、ショスタコ自身の意志に関しては証言の内容に同調している傾向にある。(ただし、訳者の水野忠夫は偽書説を否定し、”音楽だけが真実を語れると信じて生きようとしたショスタコの執念のようなものに注目される”と記している)
 この「証言」騒動の中で、世界に於けるショスタコの交響曲の関心は高まる一方で、”歴史的音楽研究による成果の芸術的作品”として、マーラー以降の傑作と受け入れられるようになる。
 
Sym7rostro  第7交響曲は、ショスタコと親交があった海外亡命したロストロボーヴィッチ指揮のものもある。(左CD)
 「Shostakovich SYM. No7 "LENINGRAD" Rostropovich  National Symphony Orchestra」Warner Classics  WPCS-21105  1989

 ここには、渡辺和彦によりロストロボーヴィッチの言葉が紹介されている。”スターリンによって何百万人もの人々が殺されたのですから、第7に描かれた「悪」は、ファシズムでもあり、スターリンでもあるのです。第7はこの「悪」に抵抗する音楽と考えています”

 いずれにしてもLP盤を復活させて、過去の感動を甦らしている今、確信していることは、このショスタコ第7は私にとっては大切な交響曲なのです。

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