相原求一朗

2012年5月14日 (月)

絵画との対峙-私の愛する画家(1) 「相原求一朗」-4-

抽象か?具象か?を乗り切った相原求一朗

 まず、参考までに、相原求一朗が絵画の道に情熱を持ち、猪熊弦一郎に師事した直後の作品を見ておこう。

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相原求一朗「白いビル」 油彩・キャンバス  1950 72.5×90.5㎝ 
   (「相原求一朗作品集」1977 日動出版部 より)

 これは彼の初期の作品(1950年)。第14回新制作派協会展出品作で、マチスの影響を受けた猪熊弦一郎(1902-1993, 東京美術学校にて藤島武二に師事、1936年新制作派協会設立、1955年ニューヨークに拠点を持ち、抽象の世界に移る)に師事しての直後で、初入選となったもの。
 これは彼の一つのスタートとしての記念作といってもよいと思うが、抽象化の世界が見えている。この後次第に師の指導の下に更に抽象化は進んだ作品となる(参考:前回紹介「ハイライド」1956)。

Photo (←) 相原求一朗「船台」1959 油彩・キャンバス 162.0×130.5㎝ (「相原求一朗作品集」1977 日動出版部 より)

 相原求一朗の抽象化路線、それは見たものそのものを写実的に描くのでなく、対象を簡略化し造形の組み立てを重視した構成主義的作品と評されている。
 しかしその流れが続く中で、彼自身には次第に絵画への姿勢や作品そのものの質に疑心暗鬼が生まれるのみで、そして彼の混迷期に突入したわけである。

 混迷期に陥った要素はその他にもあったようだ。彼がモダニスム路線の新制作派協会にあって、当時海外からも新しい絵画のスタイルが押し寄せてくるという日本でも激動の美術界の中で、師の猪熊は米国に移ってしまい、自己を見いだせないままに作品は落選を繰り返していた。一方家業を継いでの日常生活で、絵画制作に生活が二股状況にもあり集中度に障害があった。絵画作家としての最大のピンチに陥ったわけである。

 こんな時を脱出できたのは北海道の世界であった。その時の状況に焦点をあててみたい。まずは彼の当時を振り返っての著述をここに紹介する。↓

****** (1959年40歳)  私は昭和三十四年(1959)頃から絵画制作に対し、大きな疑問が次々と生まれて、思うように絵が描けなくなってしまった。この頃、抽象芸術が一世を風靡し、具象から抽象に転向する画家が多かった。時流におされて、私も当然抽象に傾いたが、それは自分本来の欲求と言うより風潮におくれまいとする安易な迎合の心理が作用した事も否定できない。

****** (1960年41歳)  相変わらず絵が描けない苦しい日々が続いた。画架に向かっても空虚で構想も湧かなかった。何故に描けないのかと考えてみても、根本的に解明されぬまま絵筆が握れなかったのである。抽象の金縛りにかかって、ただ悶々とした日々が過ぎていた。
 私は1961年の秋、北海道旅行に出かけてみたのである。北海道の風土はおおらかで美しかった。そして、狩勝峠からのあの雄大な展望に接したのであった。その狩勝の展望こそ、私の今日に至る芸術思考に転機を与えてくれた唯一のモチーフであった。褐色の地面に点在する白樺や銀色に輝くすすきの穂波、紅に染まった灌木の林、鈍重な緑の蝦夷松群の色面構成はそのまま抽象の画面であった。しかし、そこに展開する風景は明らかに具象の世界なのである。私は、この雄大な抽象風景に心酔しながらそこに具象的な表現動機を見いだし、翻然として私の心象と融合し始めたのであった。
 かって多感な青春時代を過ごした満州の広漠たる原野と、幼年時代に感じた関東平野の薄暮の幻影によって、失っていた自分を取り戻し、謙虚に自然への帰依となった。久しぶりに鬱ほつたる闘志が湧いてカンバスに向かったことである。翌年の新制作協会展には、この狩勝峠をモチーフにした「風景」(↓)を出品して新作家賞候補になり、さらにその翌々年、根釧の原野を描いた「原野」と「ノサップ」の二点を出品して新作家賞をとった。
(「相原求一朗作品集」1977 日動出版部 限定800部 より)

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相原求一朗「風景」 1962 油彩・キャンバス 131.0×162.0㎝
   (「相原求一朗作品集」1977 日動出版部 より)

 これは北海道に自己を発見しての作品(新作家賞候補)。
 この後、彼の精力的な活動は海外の至るところに広きに及んだ。しかし究極は北海道、北フランス(ブルターニュ、ノルマンディー)が彼の作品の中核をなすに至る。

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相原求一朗「すけそうだらの詩(ノサップ)」 1968   油彩・キャンバス 130.0×193.8㎝
   (「相原求一朗作品集」1977 日動出版部 より)

 こうした流れで彼の第二期は充実し、詩情ある作品を多く残した(参照:相原求一朗-3- http://osnogfloyd.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-a281.html)。この時代が私の最も好きな作品群である。(たまたま私が入手出来た作品もこの時代の1972年制作であった)
 
 そして1980年以降(第三期)は、彼の総決算とも言える人生を達観したかのごとくの姿が表現されたガッシリとした抽象とは一線を画す世界が描かれるようになる(参照:相原求一朗-2- http://osnogfloyd.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-6100.html)。

 相原求一朗の絵画の三期の変化には目を奪うほどのそれぞれの個性ある強烈な世界がある。しかしそれが人ひとりの人生としてみるに興味深いのである。

(絵画の公開 : 著作権法第三十二条に準じています)

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2012年5月12日 (土)

絵画との対峙-私の愛する画家(1) 「相原求一朗」-3-

心に響く実際の風景を抽象か具象かを超越して描く相原作品

 相原求一朗を語って三回目(通算四回目)となってしまった。ここでは私の注目する絵画を登場させる。
 求一朗は本名久太郎であり、父の家業を継いだ際には、世襲により茂吉と改名している。そして1965年46歳に雅号を求一朗としている。これは彼が目標が定まって本格的に絵画に集中したときである。
 
  以下は、混迷期を経て、1961年北海道に自己の世界を見いだし、それ以降から1970年代の彼の意欲溢るる時(彼の第二期)の作品群(北海道及び北フランス)である。 (鑑賞:クリック拡大)


(1)

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相原求一朗「道-北国の町角」 油彩・キャンバス 1974  112.0×162.4㎝
   (「相原求一朗作品集」1977 日動出版部 より)

 この作品は以前にも紹介したが、彼が北海道の地に自己の目指すものの発見が出来、最も集中した第二期(私の勝手な区分)の作品である。この頃には北フランスと北海道に集中的に足を運び制作している。
 彼の作品の生涯の一つの主題でもあるとも言える”道”を描いているが、画面の構成の骨格であると同時に、奥に流れてゆくこの情景の哀愁は他の追従を許さない。私の好きな作品でありここに登場させた。
 ここに描かれるものは抽象作品を経て又構成主義的アプローチも経て後に出来上がった一つの相原のパターンであると思う。そしてそれよりも大きなポイントは、厳しい北の国の生活の姿が情感を持ってこの一枚で物語っている。

(2)

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相原求一朗「廃船のある風景」 油彩・キャンバス 1972 112.0×162.0㎝
   (「相原求一朗作品集」1977 日動出版部 より)

 上の「道-北国の町角」より二年前の作品。北フランスにての作品であるが、彼の心が表現されていると思う。彼の”道”を描く特徴がここにも出ているし、厳しい寒さに耐えての港の姿と、そこに生きる人間模様とが、彼の詩的情感に支えられて描かれている。色の深さにも圧倒される作品。

(3)

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相原求一朗「大地・雪どけ」 油彩・キャンバス 1975 130.5×162.5㎝
   (「相原求一朗作品集」1977 日動出版部 より)

 北海道にみる厳冬の荒野は、彼の描く大きなテーマでもある。しかしこの作品には雪解けの姿が描かれ、ただ厳しい暗さのみでなく、春に向かう期待感を失っていないところが相原作品の魅力である。

  相原求一朗の作品の特徴としては、黒と灰色とが織りなす色との技が見事である。これに関しては・・・・・
 彼の作画技法の特徴として、美術評論家のたなかじょう氏によると、描くというより削る操作繰り返されている特徴があるという。まず一般的にはない下塗りの特徴としてアイボリ・ブラックが塗られていて下地は真っ黒な状態。そして半乾きの状態の時に各色の絵の具を乗せては削ってゆくという手法で、最初から中盤まではパレットナイフとローラーなどが使われ、筆は終盤になって使われるのだそうだ。下地が黒であり、乗せられた色がナイフで削られると黒が起こされてその効果が相原流の基礎にあるという。何色が何度も重ねられ削られた上で彼の色調が作られているというのである。
 これも彼が築いた一つの技法であり、そうした目で彼の作品に目を向けてみると、これも又趣が増すというものである。

(4)

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相原求一朗「道-広い道」 油彩・キャンバス 1974 112.0×162.4㎝
   (「相原求一朗作品集」1977 日動出版部 より)

 北国の詩情が単純な世界に滲み出ている。

(5)

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相原求一朗「風はやく」 油彩・キャンバス 1978  61.0×91.0㎝
(「AIHARA 初冬の便り-ブルターニュ・ノルマンディー」1979 日動画廊 (個展記念画集) 
より)

 北海道に通ずる世界を厳しい寒さの北フランスの海岸に見て取っていた相原の心情が溢れている。ドーバー海峡の荒磯に初冬に立つ求一朗の姿が見えてくる。この作品は1978年の当地への二度目の取材時のもの。
この旅にては、白い絶壁、ひっそりとした港、波際の灯台、どんよりとした空の下の初雪、荒地の丘、海沿いにじっと耐えて立つ家など多くが描かれた。又何枚かに人物が挿入されているが、ほとんどが奥に向かう背姿を描いている。

(相原求一朗の1960年代の転機について更に次回掘り下げたい)

(絵画公開することにまつわる著作権問題について)
  著作権法第三十二条 に準じて公開しています。ご意見があればご連絡下さい。

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2012年5月 9日 (水)

絵画との対峙-私の愛する画家(1) 「相原求一朗」-2-

冬の北海道の詩情を描く”相原求一朗心象風景画”は完成

Photo_2  左は、北海道河西郡中札内村にある「相原求一朗」美術館。1996年開館している。これは昭和2年に札幌軟石を使って建てられた歴史的建造物である旧帯広湯(古い銭湯)を移築・復元したものが本館だという(確かに対の2ケの入り口があるところが面白い)。これに加え新築の別館があるが、北海道をテーマとした絵画のみならず、ヨーロッパ(フランス中心)での作品展示の増築棟がある。
 私は、企画ものの相原求一朗展で実物の彼の絵画に接してきたが、その他、画集、パンフレットなどをもっているが、この美術館にはまだ訪れていない。何時かは必ず行きたいと思いつつ現在にある。

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相原求一朗「天地静寂」 油彩・キャンバス 1994 80.5×130.3㎝
             ( 「相原求一朗の世界展」日動出版より )

 1980年以降の彼の第三期といえる北海道の雄大にして静寂な世界を詩情豊かでありながら安定した世界に描かれた作品。この作品の1994年というと、彼は75歳を過ぎてからの大作である。この90年代には、彼の創作意欲も盛んで、大作が多く残されている。彼の絵画人生の総決算としての北海道にみる心の形がこうなったのであろうと思うのである。ここには絵画としての悩みは全く感じられない。彼の到達した世界観のみが見えてくる。(クリック拡大で鑑賞して下さい)

Photo  彼が1961年に北海道に自己を見いだす前は、1948年29歳の時に、猪熊弦一郎に師事し、師の指導下で対象を写実的に描くのでなく、抽象の世界に流れ造形の組み立てを重視する一つの構成主義的な作品に傾倒していた。この頃は彼はかなりの意欲を持って絵画に向かっている。
(←)相原求一朗「ハイライド」 (部分) 油彩・キャンバス 1956   162.0×130.5㎝ (「相原求一朗作品集」1977 日動出版部より)


 しかし当時は抽象芸術が一世を風靡した頃であったが、そんな中で1959年なった頃、彼はそれに迎合しているかの姿勢に疑問を抱くようになり、思うように絵が描けなくなったという。抽象の世界に彼としての納得の完成域に到達できなかったのである。

 そして以前から(1954年から)父親の死によって埼玉糧穀株式会社を継いでおり、その仕事の関係で彼はよく北海道を訪れたようだ。
 そんな絵画に悩みの底にあった1961年、その北海道を訪れた時、札幌発帯広行きの急行列車が狩勝峠のトンネルを抜け出た時の狩勝の光景に接して、”これこそ抽象、しかも歴然と形がある”と、その地に、自己を主張できる対象を見いだして、1963年にはそのテーマに向かった作品「原野」「ノサップ」にて新作家賞を受賞し、彼の技法に悩んだ世界から、自己の心に響いた描く対象を如何に掴み描くかに変化してゆき、絵画との対峙法の悩みから一歩脱却したというのである。

( 私は実は、この彼の第二期である転換期の60-70年代時期の構成主義的ニュアンスの残った抽象からの具象の混在した詩情あふるる作品が好きである~前回取り上げた「自転車のある風景」、「道」など。たまたま私の手に入った小作品であるが「当別の教会」もこの時期のものだ。)

 美術ジャーナリストの藤田一人によると、50-60年代は一時代のダイナミズムを感ずる手法であったが、彼は当時の作家の中ではセカンドランナーとしての認識で苦悩していたと思われる。美術学校出身者でなく、親の家業を継ぎながらこつこつ描いていた彼には、時代の流行に憧れるとともに追従者でしかないという不安と、そこから脱却して独自の評価を得ることへの渇望は人一倍だっただろうと。雄大で厳しい北海道の自然という対象はそれを達成しようとしたのかもしれない。70年代は孤独と不安が見え、それが詩情豊かと表されたところである。そして80年代以降はがっちりとした構成とマチエールのもとに揺らぎのない安定した風景表現を展開したと解説している。

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相原求一朗「浅間三月」 油彩・キャンバス 1993  91.0×116.7㎝
             (「相原求一朗の世界展」日動出版より)

 これは北海道の「天地静寂」とほゞ同時期の信州の浅間山のまだ到来しない春を待つ頃の作品。花もなく、新緑もなく厳しい冬を乗り切っての姿である。彼の評価も一つの段階に落ち着き、その中で彼は絵画というものに対しては何も躊躇(ためら)うところがない自己の無の境地に近いところで詩情を我々に示している。
 
(今回は第三期つまり相原求一朗の完成期の作品を主として紹介したが、更に次回はこれに至るその前期である第二期(私の最も好きな作品群がある)にもう少し焦点を当てる)

(注)今回のこのテーマにおける作品の公開は・・・以下の著作権法に準じて行いました。
<著作権法 第三十二条>
公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。

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2012年5月 6日 (日)

絵画との対峙-私の愛する画家(1) 「相原求一朗」-1-

偶然出会った相原求一朗作品

               ****** [相原作品との出会い] *****

 私は、相原求一朗を知ったのはそれ程昔ではない。もともと絵画には興味があったが、それは主として油彩画を中心とした洋画ではあるが(自分でも時に暇つぶしに油彩画を自己流で描いてみてはいたが)、日本の作家は誰でも知っている有名な人を除くと、殆ど知らないに等しかった。
 それでも日本では、昔から好きなのは佐伯祐三で、昭和五十年頃には中央公論社の「日本の名画」26巻を揃えて、その23巻目が彼の特集であり、惚れ込んで眺めていたものであった。その頃には、そうした日本の洋画でも自分で所有するという欲望はなく、むしろ美術館や展覧会で眺めていることで満足していたのであった。(月刊誌では、「月刊美術」「一枚の繪」は昔から見ていましたが)

 ところが、私の友人が今から20年少々前に、手頃な値段でなかなか良いものがあるので買って家に飾ってはどうかと勧めてきた。それはドイツのヴンダーリッヒPaul Wunderlich のリトグラフであった。
Photo  取りあえず画商の家を訪れて、そのヴンダーリッヒを拝見したわけであるが、そのテーマの奥深さには圧倒された。しかも色合いも好きなタイプ。買うかどうしようか迷っていたときに、ふと目を横にすると、そこに極めて色合いが暗めであったが、一見灰色に見える色には奥深い色が含まれており、油絵のマチエールの素晴らしさと単純な対象のなかに何か訴えてくる4号という小さな絵が置いてあった(上)。画商に”私はこれが気になるのだが”と言うと、彼は”こうゆうのがお好きですか?”と言いながら値段を示した。ここに来た以上気に入ったら買ってみようという気があった為、これならなんとか私のへそくりで買えるかと思い、早速衝動買いしてしまった。それが相原求一朗の「当別の教会」という絵だったのである。
 こうして私は自分で買った絵から相原求一朗を知り、そして彼の作品に興味を持ったという段取りになるのである。

                          **********************************

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相原求一朗 「漁港厳冬」 油彩、キャンバス 1977, 162.3×162.0㎝

 これは私の好きな1977年の作品。圧倒的迫力の断崖と雪と氷の厳冬の姿。凍り付いた海と岸が一体化した中で、港の建物と船が並んでいる。この光景を絵にしようとする求一朗の心に関心を持たざるを得ない。
 この作品が描かれた70年代は、彼の画風の転換期を経て自己を見いだしての自然との対峙の世界に没頭している頃のものだ(私は彼の第二期と呼ぶ)。

 彼の作品は当初はどちらかというと印象派に近い抽象の世界であったようだ(彼の第一期)。実際若き頃はマティスやピカソの影響を受けた作風であったという。その後抽象か具象かに悩んだ時期を過ごしていた。

Photo_3  60年代に北海道の自然に向かった時に自分の青春時代を軍務で過ごした満州での荒涼たる原野にての生活などの基盤もあってのことか、その北海道のどちらかというと厳しさに自己の世界を見いだしたという。
(左) 相原求一朗「道-北国の街角」1974(部分)

 そして60年代から70年代(彼の第二期)は、日本では北海道を中心に、そしてヨーロッパでも、華やかなパリでなく、やはり北の寂しさと厳しさのあるノルマンディー、ブルターニュ地方を交互に訪れ自己の世界を築き上げた。

 第二期の彼の対象には重要なものに「道」があり、そして「厳冬」、「荒野」、「荒涼たる世界」、「北国での生活」などが描かれる。
 ヨーロッパでは異国の一種独特な郷愁の感ぜられる世界を描いている(↓)。

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相原求一朗「自転車のある風景」 油彩・キャンバス 1973, 162×162㎝

 スクエアなホーマットに手前の広場が大きく画面を占め、奥にヨーロッパ独特の町並み、そして小さいが白っぽい壁の前のポツンと置かれた自転車を描き込む。この自転車の効果がこの絵を魅力ある異国の風景として仕上げている。(私が見るに、これはノルマンディ地方のオンフルールの旧ドックと思われるが、多くはすぐ横の華やかな港のヨットなどを描き込むのであるが、それを敢えてしないところが彼の一つの世界なのか。この世界は恐るべき印象の違いである。)

 そして彼は、その後の80年代以降になると完全に雄大な北海道の”詩的世界”を描くに至っている。

 相原求一朗については、5年前のこのブログにて既に取り上げてはいるが(2007.1.3 今年の目標 : 絵画の世界http://osnogfloyd.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_2d7c.html )、ここで彼の歩んだ道をも見てみよう。

1918年 埼玉県川越市に生まれる。生家は農産物の卸問屋で恵まれた環境
1936年 川越商業学校卒、商業美術担当教師から油彩学ぶ。美術学校目指すが稼業を継ぐ
1940年 21歳兵役、旧満州やフィリピンを転戦
1944年 フィリピンからの帰還途中、搭乗飛行機が墜落、重症を負い漂流していたが救助される
1948年 大国章夫に出会い、絵画に向かう
1948年 猪熊弦一郎に師事
1950年 「白いビル」で新制作展初入選
     その後約十年間自己の絵画に疑心暗鬼、落選を繰り返す
1962年 前年秋深まって、初めての北海道の札幌から帯広への旅、満州での体験などからその北海道の狩勝に自己の世界の対象を見いだし、以降この年から北フランスと北海道を中心に作品を描く
1963年 「原野」「ノサップ」が第27回新制作協会展新作家賞受賞
1968年 新制作協会会員、個展「北の詩」
1974年 第1回東京国際具象絵画ビエンナーレ招待出品「灯台」「峠の家」「明るい丘」
1975年 個展「北の詩」
1977年 「相原求一朗作品集」(日動)
1984年 埼玉文化賞受賞、「相原求一朗画集」
1987年 個展「北の風土’87」
1996年 川越市名誉市民、相原求一朗美術館開館
1999年 逝去

 ここに取り上げた絵画は、著作権の問題があろうかと思いますが、著作権法32条の”公表されたものを研究に引用する場合”を適応していると考えています。関係者から問題があればご指摘下さい。対応いたします。


                           (相原求一朗・・・・・続く)

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