私の愛する画家

2015年10月 8日 (木)

中西 繁「哀愁のパリ」油彩画展からのお話

今回は、パリの美しさと哀愁と・・・・・・そして人間性

 ここ一週間において、楽しく嬉しいイベントがありました。私がかってこのブログでも取り上げさせていただいた中西繁画伯の作品展を鑑賞できました。
 (中西繁先生については、ちょっと量がありますが、当ブログ・カテゴリー”中西繁http://osnogfloyd.cocolog-nifty.com/blog/cat44430537/index.html”を、通して見て頂くと、私が何故期待しているかがご理解いただけると思います)

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         (中西繁画「雨のモンパルナス」F8~油彩画展案内から)

 実は今回の重大なイベントは、油彩画展鑑賞に加えての先生との”絵画は勿論ですが、それを超えたお話”が出来たことです。
 私は先生には以前にも書いた事があるのですが、三つのポイントで大きな関心を持っているのです。それは①「絵画の技術と美」、②「哀愁の心」、③「人間的・社会的問題意識」と言って良いでしょうか?。

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        (今回の「油彩画展」~中西繁先生の公開写真)

 そして今回の油彩画展は「哀愁のパリ」とテーマされてありますから、①および②が中心の世界ですが、実は私どもの為に数時間も用意して頂いたことになった”楽しい会合”によって、先生の魅力ポイントに④を追加したいと思っています。
  その追加ポイントは「魅力的な人間性」といったところでしょうか。この魅力は、感ずる者によって左右されるものであると思いますが、私にとっては更なる大きな魅力が感じ取れたと言うことで、今回のイベントの大きさを感じているところです。それはこの油彩画展に展示された作品に、あのパリのセーヌ川にかかる「ポン・デ・ザール」と「ボン・ヌフ」を描いた2作があったのですが(写真を撮るのは控えましたので、ここで紹介できないのですが)、そのセーヌ川の色の輝きです。これはなんと言っても観た者でなければ解らないところですが、まさにこれが中西繁画伯の人間性の輝きと思ったところです。絵画というのは、こうしたその人の姿が現れるところが素晴らしいですね。

 さて、この点については、いずれもう少し究めたいと思っていますが、今日はこんなイベントがあって、私にはこんなプラス・ポイントが加わったと言うことを記させて頂いて、いずれここに詳しく紹介したいと思っているところです。

(参考映像) 中西繁展「廃墟と再生」

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2015年3月12日 (木)

男のロマンのエッセイ集:中西繁著「À Paris~ゴッホの部屋の日々」(その2)~映画「男と女」

       <My Photo Album 瞬光残像 = フランス編>

中西繁先生の「パリ」に刺激されて・・・・私も懐かしのもう何年か前の「パリ・セーヌの夜」の撮影モノクロ・フィルムを引っ張り出しての一枚です(↓)。この頃は”夜のパリ”が好きでした。

Paris1wh

サンジュ橋pont au change 越しに観るコンシェルジュリーLa Conciergerie (遠くにはエッフェル塔のライトが見える)

          *    *    *    *
さて、本題↓

 男のロマン貫く・・・・・・中西繁

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 フランスとは・・・・まさにオールラウンドに芸術の国と、私自身の人生の中では位置付いている。中西繁の絵画の世界は当然として、私の好んだ音楽や映画そして写真の世界でも・・・なかなかこの国の右に出るのは簡単には見つからない。
 さて、中西繁のエッセイ集「ゴッホの部屋の日々」感想の続きである。

Photoモンマルトルからモンパルナスへ~モンパルナスの朝

 中西繁は2006年までの2年のパリ生活後は、冬期にパリに2,3ケ月滞在する生活のようだ。これはまさしく正解だと思う。
(←中西繁画「雨上がりのモンパルナス大通り」)
 私はパリは冬期が好きだ。街も葉を落とした街路樹と建物が美しい。ただ私と違うのは、彼は朝早い、そしてそこにフランスらしい姿を感じている。私は夜派、夜のパリの姿に酔った。

ドーヴィル・トローヴイル   ( 映画「男と女」

41ck0svwlrl1_2 この街はあのノルマンディー地方の海を望む港町。私はフランス映画「男と女Un homme et une femme」 (1966年)が、このドーヴィルを舞台としていることは、彼のこのエッセイで初めて知った。とにかくこの映画を見た頃は、フランスにおける都市の位置関係など理解していなかった為だ。
 いつぞやも中西繁はこの映画「男と女」がお気に入りであったことは知っていたが・・・このエッセイ集でもこの映画の監督のクロード・ルルーシュの言葉”人生は2,3のパターンしかなく、人々はそれを繰り返し残酷なまでに同じ道を歩いて行く”と、そして彼の画集に記した”人生は無数のパターンの足跡として残る”を対比して・・・・”人は歳を重ねるほど、ますます過去を想いながら生きてゆくものなのだ”と結ぶ。このあたりが中西繁節。

21 さてこの「男と女」の映画に話しを戻すが、これからは私のこの映画感想。話の筋はそれほど・・・・・?で、つまり公開当時のキャッチコピーを見ればその通り→”たちきれぬ過去の想いに濡れながら、愛を求める永遠のさすらい ・・・・・・その姿は男と女”。

 この映画の主題歌はフランシス・レイの”男と女”、これが又映画以上に世界を魅了した。又映像を音楽が作り上げるという技も見えた。
22 又「映像」というそのものの意味にも迫った。アングル、クローズ・アップ、動き、光の陰影、明るさ暗さ、そしてなんと言っても画面のお膳立てとしての”雨”。このドーヴィルという地は、日本で言えば冬期は暗い日本海に面した地と似ているのだろう。その暗さも重要な役割を果たす。そんな背景下の映像の素晴らしさも教えてくれた映画である。

 そして更にこの映画、カラーとモノクロの対比が素晴らしい。場面によって使い分けしているのだ。両者は互いに否定するものでなく、それぞれが優れたものである事を教えた。ただ私自身はこの映画ではモノクロに軍配を挙げている。

・・・・と、中西繁のロマン・エッセイ集はいくらでも私の書くことが脱線する要素を持っていて、私には楽しい一冊なのである。

(参考)

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2012年6月13日 (水)

絵画との対峙-私の愛する画家(5) 「五十畑勝吉」

まさに風景画のお手本

 私のように下手な横好きで、時に絵を描いていると、なるほどこう描けば良いのかと、お手本が欲しくなる。そんなところでは、既に取り上げた中西繁、安藤育宏、そしてここで取り上げる五十畑勝吉は私好みの私が勝手に決めている師(先生)である。とくに私の場合は描くとしたら風景画が多い為尚更のことである。
(供覧絵画はクリックにて拡大)

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五十畑勝吉「初秋相模川(相模原)」 油彩・キャンバス M10号
(別冊:一枚の繪~画集 風景を歩く 1986 一枚の繪(株)より )

 実は、五十畑勝吉は日本の名勝といえる場所に出向いて、美しい自然を描いているのではなく、日本のどこにでもある身近なところに対象を求めている。
 彼の著書「油彩と水彩で~風景画を描く」(主婦と生活社)にある彼の言葉にみるのは、”私が描く風景は人物を点描として入れたり、建物を主題に描くことはほとんどない。自然の風景であっても、人の営みを感じさせるような場所が好きだ。・・・・”と記している。
 確かに五十畑の絵には、そこに何か郷愁を感じたりするのはその為かも知れない。そしてそれは私だけでは無いであろう。


Photo_5五十畑勝吉「北信初冬(中野)」 油彩・キャンバスM10号
(別冊:一枚の繪~画集 画家80人による100点 1985 一枚の繪(株) より) 

 北信州での一枚。これに対しての彼のコメントは、”私は以前から近場での取材が多く、地方への取材はほとんど行きませんでした。・・・・・北信五岳の名山と紅葉の季節はこれまでの私はあまり描かなかった題材です。又遠方へ蛇行する山間の民家と平野にも、何かきびしい自然の美しさというものの魅力を感じ、描いてみました”と書いている。
 枯れ始めている雑草に囲まれた道は、こうした山間の地の代表的姿であり、そこに又人の営みがあっての姿がある。彼はこうした枯れた雑草の道を晩秋、早春などに前景に入れる手法をよくとっている。それが又、彼の絵の我々に語るところとなっていて、それが一つの魅力にもなっている。
 この絵に於いても、きびしい冬を迎える前の短い秋の風景であるが、紅葉の美しさというよりは、なにか郷愁を誘う世界を描いている。

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五十畑勝吉「河原の道(津久井小倉橋付近)」 油彩・キャンバス P8号
(別冊:一枚の繪~画集風景を歩く 1986 一枚の繪(株) より)

 ここに描く五十畑の秋は燃えるような紅葉ではない。木々は紅葉しているが、道と川の境には雑草が茂みそして枯れている。川に沿った道は遠くの橋に向かっている。美しい景勝地ではないが、人の営む世界の中からのなにかほっとする美しい一風景だ。これが五十畑の世界であると言って良い。
 描く技法も、非常に私にとってはあこがれのもの。特に枯れ枝の線の描き、雑草の描き、この独特の線の流れは非常に魅力的である。
 五十畑自身の書いたものを見ると・・・・・・・”私は美術学校で学んだことがない。キャンバスを張ったり、絵具の使い方や、下地の塗り方など、絵の好きな仲間に教えてもらったり、技法書を読んだりして学んだものである。それ以上のテクニックや絵画論なとアカデミックな考え方は持ち合わせていない。私の描き方は自分で考えたものである。” と語っている。

五十畑勝吉(いそはたかつよし) 略歴
 1933年 東京都文京区生まれ
  中央大学卒
 会社勤務の傍ら独学で油彩を学ぶ
 日展、一水会、大潮展、朔日展など入選
 一枚の繪でも活躍
 1985年 第14回現代洋画精鋭選抜展金賞
 無所属
 個展開催

C五十畑勝吉「残雪の道」 油彩・キャンバス F6号

 早春で、平地に雪をみる風景。日本ではごくありふれたどこにもある農道からみた風景。こうしたところのほうが絵ごころをさそうというのが五十畑勝吉である。
 枯れた雑草、もう緑も見え始めたときの積もっている雪と土とのコントラストの地肌。そして雑木林などの描きが魅力的。
(小生所蔵画)
 

(ここに登場する諸画伯及び五十畑勝吉画伯への敬称は失礼ですが普遍性を期して敢えて省略しました。ご了承ください。 又絵画の供覧は著作権法第32条に準じています。問題があればご連絡ください)

 
 

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2012年5月30日 (水)

絵画との対峙-私の愛する画家(4) 「三塩清巳」

受けた感動で描いた作品にカラーの独特の世界を築きあげた

 前回”色の詩人”として吉岡耕二に焦点を当てたが、「色」をテーマにしてみると、まさに”カラーリスト”と言われる三塩清巳を取り上げなければならない。私は彼の色彩”赤”を生かした作品に圧倒され、又作品の画面にみなぎるエネルギーに圧倒されたのである。

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三塩清巳「赫(上高地焼岳)」 1994 油彩・キャンバス 130F
(「三塩清巳作品集」 1996 編集:井上哲邦 より)  

 この作品に対して、三塩清巳はこのように記している・・・・・”火山が好きである。北は北海道から九州までよく描きに行くところは火山が多い。 山の形もさることながら火山を見ていると、赫々と燃えさかるマグマ、勢いよく噴出する噴煙、そんなエネルギーの強さに感動する。 このエネルギーを自分のものとしたいという願いがある。”・・・と。

 確かに彼の作品は火山が多いが、その他風景は山が圧倒的に多い。しかもエネルギーの強さを感じてか、”赤”を駆使して描く。そして力強い。

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三塩清巳「桜島晨明」 1991 油彩・キャンバス 80F
(「三塩清巳作品集」 1996 編集:井上哲邦 より)

 多くの画家に愛される”桜島”、三塩清巳に描かせると、やはり”赤”の山の姿が浮かび上がる。
 更にこの三塩独特の”赤”であるが、彼自身このように記している・・・・・”雪景色を描いても赤を使いたくなる私にとって火の山桜島は赤で描く以外色がない。赤に憑かれて久しいがまだ納得のゆく色が出ない。 火の山だから赤で描くのではなく、赤で描く方が自分の気持ちを表現し易いからである”・・・・と。

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三塩清巳「上高地霞沢岳」 1993 油彩・キャンバス 130F
(「三塩清巳作品集」 1996 編集:井上哲邦 より)

 彼の愛した上高地。この上高地の霞沢岳を描いても赤がふんだんに使われる。
 ”私は赤の色をよく使うが、季節感とか、自然現象、ある岩者の固有色としてではなく自分の色として残雪の上高地霞沢岳の神々しさ、大きさ、美しさといったものを表現したかった”と彼は記している。
 赤でないものを赤で描く彼の絵画に対しての姿勢は、自分で感じたことをどう表現するかという一つの手法であると言える。そしてその赤が不自然でなくなってくるところが魅力である。

Photo_2三塩清巳「サーカスの人たち」 1980 油彩・キャンバス 100F
(「三塩清巳作品集」1996 編集:井上哲邦 より)

 三塩清巳の作品集をみると、馬、サーカス、ピエロを扱った作品が多い。(1960-80年)
 彼の子供の頃は馬と一緒に育ったという、その体験からくる馬に対する愛情と、そしてサーカスには、その中に人生の縮図を見ていたのであろうか。そのサーカスにはピエロの役割を重要視している。これに関係した一連の作品は、かなり三塩としての他に見ない独特の世界である。
 画風は森田茂に師事し大きな影響を受けていると思われるが、師森田からは、”色に独特のものを持ち・・・・、才能のある作家である。努力の作家である。・・・・”という言葉をもらっている。
 

Photo_3三塩清巳「犬吠灯台」 油彩・キャンバス 20F

 三塩は全国各地の魅力ある風景を殆ど絵にしている。そのうちの一枚であるが、犬吠埼の灯台を描いたもの。なんといっても海の色の深さの魅力と荒々しい躍動感ある様、岬の肌の描き込み、油彩としての長所を十二分に生かしての作品だ。この作品に於いても空の色をはじめ、色は心という心情で描いている。(私の所蔵作品)


三塩清己 みしおきよみKiyomi Mishio 略歴

1929年-佐賀県出身。
1949年 佐賀師範学校数学科卒
1952年 富永秀夫に油絵の指導を受ける
1954年 森田茂に師事。
1955年 日本大学工学部電気工学科卒
      東光展 初入選
      東京都内小学校に勤務
      東光会にて活躍。日展評議員、東光会理事長を務め、画壇の重鎮として活躍。
1974年 日展特選受賞
1978年 日展特選受賞
東光展文部大臣賞受賞、日展審査員3回、個展・グループ展多数開催。
確かな画力とセンスで高い支持を得る。

(三塩清巳画伯は、現在80歳を超えていますが、ご活躍中です。ここでは普遍性を期して失礼ですが敬称は省略いたしました。よろしくお願いします。 又絵画の供覧は、著作権法第32条に準じて行いました。何か問題がありましたらご連絡ください)

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2012年5月26日 (土)

絵画との対峙-私の愛する画家(3) 「吉岡耕二」

驚きの造形と色彩美学

 私の愛する画家として、現役バリバリということでは、既に”問題意識の画家:中西繁”を取り上げてきたが、ここではもう一人”吉岡耕二”に焦点を当てる。
 彼の描く絵画を語ろうとするには、私の言葉では適切なものがない。まずはその作品を鑑賞することが最も手っ取り早い。

Bluemosque2004
吉岡耕二「ブルーモスク Blue Mosque (トルコ)」 2004  oil on canvas  112.7×91.0㎝
(画集「YOSHIOKA 2003-2009」 2009  株式会社アートデイズ より)

 彼の作品を語るには、彼の画集に寄せられた言葉が適切だ。
 詩人・作家の辻井喬によると”はじめて吉岡耕二の作品に接した時、浮かんできたのは色彩の詩人、という言葉だった。線も構図も、色彩が歌い、踊り、そして何か哀し気に沈黙する・・・そうしたドラマを表現するためにあるのだと思った。しかし今、そうした魅力に引き込まれながらも私は、この作者がそのようにも光を自らの鼓動にし得たのはどのような必然、あるいは成り行き、または身体的な法則によってなのかと考えてしまう”・・・と。

 吉岡耕二は1943年生まれ。24歳で自由な色彩表現を求めてパリ国立美術学校に留学。1975年に日本人としては最年少の31歳で、サロン・ドートンヌの正会員に推挙されるという実力派。地中海を中心としてヨーロッパ、北アフリカ、カリブなどにある多くの国を訪れて描いてきている。
 私にとっての彼の作品の魅力は、キャンバスの中に大胆な構築される対象の姿と、色による心の表現であろうその鮮烈さには圧倒されるところにある。

Theeiffeltower2008
吉岡耕二「エッフェル塔 The Eiffel Tower (フランス)」 2008  oil on canvas   72.7×60.6㎝
(画集「YOSHOOKA 2003-2009」 2009  株式会社アートデイズ より)

 グラフィックデザイナーの早川良雄は、”吉岡耕二の絵の前に立つと、あゝこれこそが絵画のみに可能な表現なのだと思い知らされる。・・・・・ 対する者は、まずその美しい色彩の協奏に酔い、奔放な形象の解放に圧倒される。意表を衝く重層空間のなかに風景の記憶が映し込まれるが、それは抽象と具象のあわいを自由に往き来しながら独自の造形世界に再構築されていて、見事という他はない”・・・と、記している。

Cordoba2009
吉岡耕二「コルドバ Cordoba (スペイン)」 2009  oil on canvas   90.9×72.7㎝
(画集「YOSHIOKA 2003-2009」  2009  株式会社アートデイズ より)

 彼の作品は、圧倒的に地中海をとりまく国々の都市を描く作品が多い。そしてそのキャンバス内の描かれる対象の姿は、一見抽象に見え、又自由奔放でゆくままのごとくに描かれているようであるが、実は私の目からは相当な計算が成されていると思う。そこが又大きな魅力である。

Flowers2001_2 彼は、上のように風景画が主力と言って良い。それは彼の描こうとする世界観の対象であるからであろう。
 しかし、左のように”花”を描いた作品も多く見られる。

吉岡耕二「花 Flowers」 2001  oil on canvas  27.3×22.0㎝
(画集「YOSHIOKA 1999-2003」 2003  より)

 しかし絵画の世界は、絵画であるからこそと言う自己の表現としての奥深い世界が存在していると思う。それは表現技法や対象の選択においても安易に到達出来るような世界ではないであろうことも想像できる。観る我々は何を感ずるかは又その人の個性であり、歴史的産物でもあろう。
 特にそうしたことを考えさせるのが彼の絵画の世界の一面であるようにも思う。

Photo_2吉岡耕二「フィレンツェ」 F10号

 
これは、上のトルコ、フランス、スペインを描いた3作のような大作ではないが、私のかねてからの念願が叶っての偶然持つことが出来た彼の作品で、イタリアのフィレンツェを描いている。この街の象徴でもあるドゥオモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)を遠景に配して、彼独特の鮮烈な色彩でイタリアの歴史の街を描いたもの。まさにこの空の色は、吉岡にしてみると、フィレンツェの発するエネルギーを感ずるところなのであろうか。ルネツサンス運動の発祥の地として美しいこの街の人気は日本人にも高い。

吉岡耕二略歴

1943年 大阪に生まれる
1962年 大阪市 立工芸高校美術科卒業
1967年 渡仏、パリ国立美術学校に留学
1968年 サロン・ソシエテ ナショナル・デ・ボザール(於パリ近代美術館)出品
     サロン・アーティスト・フランセーズ(於グランパレ)受賞
     美術誌「アート」に紹介される
     スペイン・ポルトガル・モロッコ・アルジェリアに旅行
1970年 サロン・ドートンヌ初出品(翌年共 2 年連続)、会員候補に推挙される(75年正会員)
1971年 サロン・テールラテンに招待される
1972年 インド・ネパール旅行
1973年 パリに於ける各展の他、アンデパンダン展にも出展
1981年 14 年間の帯仏生活を終え帰国
1983年 チベット旅行
1987年 エジプト旅行 梅田阪急個展
1989年 モロッコ旅行
1992年 メキシコ旅行  渋谷西武個展
1993年 スペイン旅行  宝塚西武個展
1994年 カリブ旅行 梅田阪急個展
1996年 ギリシャ旅行
1998年東急Bunkamura Galleryにて個展
1999年CDジャケット20種(東芝EMI)
2000年 南フランス旅行 大丸百貨展個展 (東京)
2001年 イタリア旅行 大丸百貨店個展(大阪 神戸)
2002年 マルタ島・シチリア島旅行 みなとみらいギャラリー(神奈川)
2007年 5月、上海アートフェア出展

2008年 高島屋大阪個展2009年 BunKamuraギャラリー個展(東京)
2010年 ギャラリー尾形個展

(吉岡画伯をはじめ、ここで取り上げる諸画伯に対して、普遍性を期す意味で敬称は略しました。よろしくお願いします。又絵画の供覧は、著作権法第32条に準じています。問題があればご連絡ください)

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2012年5月20日 (日)

絵画との対峙-私の愛する画家(2) 「安藤育宏」

偶然の再会によって・・・・・

 好きな絵画との出会いは私の場合大抵偶然だ。もともと絵画は自分で描きたいほうであり、そんな為か特に名を馳せた人の絵画鑑賞というよりは、あゝこんな絵が描けたらなぁ~と思う絵に注目してしまう。前回紹介した”相原求一朗”もそうであったが、実は今回取り上げる”安藤育宏(やすひろ)”は、昭和50年代だったろうか、絵画の材料を求めてある画材店に足を運んだ際に、偶然壁に掛けてあったSM(thumb hole 227×158mm)の小さい絵によって私との関係が始まった。それが”安藤育宏”の「シャルトル早春」であった。(画像はクリックにて拡大します)

Photo安藤育宏「シャルトル早春」 (SM)

 これが、その絵画であるが、現在の私の部屋の壁にこのようにある。その出会いの時、比較的若い店主に値段を聞くと思いのほか高い。しかし私はこのキャンバス上の絵具の乗せ具合に惚れてしまった。多くの色を画面上で重ね合わせて行き、各色を生かしながら見た目に一つの色合いを感じさせる。
 私はあまり当時絵画を買いたいとは思っている方でなく、むしろ自分の趣味の作画に参考になるような絵を眺めていればよいほうであった。この時は、小さい絵であるし、値段的にも対応できるかなと思い、ふと欲しい気持ちが湧いて、価格交渉して結局手に入れた。店主もフランスのパリ郊外のシャルトルに行って来て思い出もあり、この絵に日本で出会ってイメージが気に入って仕入れてきたと言っていたものである。
 そしてキャンバス裏に記載されている作者の名前も見たのみで記憶に止めていなかった。それほど私は画家が誰ということには興味も無く、むしろ”この絵は自分にとって感動するかどうか”という事のみであったのである。

Photo  さて、その後20年ぐらいの月日も経って、軽井沢にふらっと出かけた際に、あるホテルで絵画の展示販売会をしていた。そこで見渡すと、F4号という小さめの絵であるが目にとまった。これもその色の乗せ具合と全体のイメージが気に入って衝動買いした。
安藤育宏「風車(オランダ・キンデンダルク)」 (F4号)
 
(こう話をしていると、私はよく絵画を買っているように聞こえるが、そうではなくてその気で買った3枚目がこれである)
 ところが、その作品が偶然にも安藤育宏作で、なんと20年前に買ったものと同一の人であったのである。まさに驚きの偶然であった。このために一気にこの作家に興味を抱くことになったのである。

安藤育宏(あんどうやすひろ) (1933-2010)
  1933年 宇都宮市生まれ
  1956-1960 一水会展に出品
  1962- 白日会展に出品(奨励賞他受賞、2004年中沢賞受賞)
  1976- 日本橋三越他にて個展32回
  フランス・イタリア等外遊15回
  白日会委員・審査委員
  日本美術家連盟会員
  千葉県松戸市に住み地域での絵画活動も盛んであった

  
Paris
安藤育宏「雨上がり・PARIS」 2004 油彩・キャンバス 97×130㎝ 
第80回白日会出展(中澤賞受賞)
(「日本の美術 画家が描いたヨーロッパ」 2004 美術年鑑社 より )

 私が惹きつけられる魅力は、キャンバス上の色彩の表現にある。多彩な色の純度が高く、それをキャンバス上で重ねていく。そして作り上げる色彩は深みとマチエールの美しさが何とも言えない魅力だ。

Photo_2
安藤育宏「レストランのある通り-パリ・モンマルトル」 1983 油彩・キャンバス F15号
  (私の所蔵品)

 これは、なんとか手に入れられた作品。タイトルどおり、モンマルトルの通りに面した味のある建物のレストランを描いている。日本人にとってはパリの一つの魅力でもある歴史ある美しい建物の並ぶ通りの一風景であるが、その情景を非常によく感じ取れる。彼は決してたゞ写実的に描くのでなく、印象を表現する色彩の妙が私にとって魅力なのだ。
 現在は、生前彼の住んでいた千葉県松戸市関係に、画伯としての活動によりその流れを受けた人々が絵画を愛した活動を展開している。

 安藤育宏に関しての私の持っている情報は少ない。一昨年に亡くなられて、私も諸々の情報を得る機会を失ってしまっている。しかしこうして残された作品には彼の心が見えて実に私は嬉しいのであるが、どなたか何かを教えてくれると有り難いのであるが・・・・・。

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2012年5月14日 (月)

絵画との対峙-私の愛する画家(1) 「相原求一朗」-4-

抽象か?具象か?を乗り切った相原求一朗

 まず、参考までに、相原求一朗が絵画の道に情熱を持ち、猪熊弦一郎に師事した直後の作品を見ておこう。

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相原求一朗「白いビル」 油彩・キャンバス  1950 72.5×90.5㎝ 
   (「相原求一朗作品集」1977 日動出版部 より)

 これは彼の初期の作品(1950年)。第14回新制作派協会展出品作で、マチスの影響を受けた猪熊弦一郎(1902-1993, 東京美術学校にて藤島武二に師事、1936年新制作派協会設立、1955年ニューヨークに拠点を持ち、抽象の世界に移る)に師事しての直後で、初入選となったもの。
 これは彼の一つのスタートとしての記念作といってもよいと思うが、抽象化の世界が見えている。この後次第に師の指導の下に更に抽象化は進んだ作品となる(参考:前回紹介「ハイライド」1956)。

Photo (←) 相原求一朗「船台」1959 油彩・キャンバス 162.0×130.5㎝ (「相原求一朗作品集」1977 日動出版部 より)

 相原求一朗の抽象化路線、それは見たものそのものを写実的に描くのでなく、対象を簡略化し造形の組み立てを重視した構成主義的作品と評されている。
 しかしその流れが続く中で、彼自身には次第に絵画への姿勢や作品そのものの質に疑心暗鬼が生まれるのみで、そして彼の混迷期に突入したわけである。

 混迷期に陥った要素はその他にもあったようだ。彼がモダニスム路線の新制作派協会にあって、当時海外からも新しい絵画のスタイルが押し寄せてくるという日本でも激動の美術界の中で、師の猪熊は米国に移ってしまい、自己を見いだせないままに作品は落選を繰り返していた。一方家業を継いでの日常生活で、絵画制作に生活が二股状況にもあり集中度に障害があった。絵画作家としての最大のピンチに陥ったわけである。

 こんな時を脱出できたのは北海道の世界であった。その時の状況に焦点をあててみたい。まずは彼の当時を振り返っての著述をここに紹介する。↓

****** (1959年40歳)  私は昭和三十四年(1959)頃から絵画制作に対し、大きな疑問が次々と生まれて、思うように絵が描けなくなってしまった。この頃、抽象芸術が一世を風靡し、具象から抽象に転向する画家が多かった。時流におされて、私も当然抽象に傾いたが、それは自分本来の欲求と言うより風潮におくれまいとする安易な迎合の心理が作用した事も否定できない。

****** (1960年41歳)  相変わらず絵が描けない苦しい日々が続いた。画架に向かっても空虚で構想も湧かなかった。何故に描けないのかと考えてみても、根本的に解明されぬまま絵筆が握れなかったのである。抽象の金縛りにかかって、ただ悶々とした日々が過ぎていた。
 私は1961年の秋、北海道旅行に出かけてみたのである。北海道の風土はおおらかで美しかった。そして、狩勝峠からのあの雄大な展望に接したのであった。その狩勝の展望こそ、私の今日に至る芸術思考に転機を与えてくれた唯一のモチーフであった。褐色の地面に点在する白樺や銀色に輝くすすきの穂波、紅に染まった灌木の林、鈍重な緑の蝦夷松群の色面構成はそのまま抽象の画面であった。しかし、そこに展開する風景は明らかに具象の世界なのである。私は、この雄大な抽象風景に心酔しながらそこに具象的な表現動機を見いだし、翻然として私の心象と融合し始めたのであった。
 かって多感な青春時代を過ごした満州の広漠たる原野と、幼年時代に感じた関東平野の薄暮の幻影によって、失っていた自分を取り戻し、謙虚に自然への帰依となった。久しぶりに鬱ほつたる闘志が湧いてカンバスに向かったことである。翌年の新制作協会展には、この狩勝峠をモチーフにした「風景」(↓)を出品して新作家賞候補になり、さらにその翌々年、根釧の原野を描いた「原野」と「ノサップ」の二点を出品して新作家賞をとった。
(「相原求一朗作品集」1977 日動出版部 限定800部 より)

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相原求一朗「風景」 1962 油彩・キャンバス 131.0×162.0㎝
   (「相原求一朗作品集」1977 日動出版部 より)

 これは北海道に自己を発見しての作品(新作家賞候補)。
 この後、彼の精力的な活動は海外の至るところに広きに及んだ。しかし究極は北海道、北フランス(ブルターニュ、ノルマンディー)が彼の作品の中核をなすに至る。

Photo_3

相原求一朗「すけそうだらの詩(ノサップ)」 1968   油彩・キャンバス 130.0×193.8㎝
   (「相原求一朗作品集」1977 日動出版部 より)

 こうした流れで彼の第二期は充実し、詩情ある作品を多く残した(参照:相原求一朗-3- http://osnogfloyd.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-a281.html)。この時代が私の最も好きな作品群である。(たまたま私が入手出来た作品もこの時代の1972年制作であった)
 
 そして1980年以降(第三期)は、彼の総決算とも言える人生を達観したかのごとくの姿が表現されたガッシリとした抽象とは一線を画す世界が描かれるようになる(参照:相原求一朗-2- http://osnogfloyd.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-6100.html)。

 相原求一朗の絵画の三期の変化には目を奪うほどのそれぞれの個性ある強烈な世界がある。しかしそれが人ひとりの人生としてみるに興味深いのである。

(絵画の公開 : 著作権法第三十二条に準じています)

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2012年5月12日 (土)

絵画との対峙-私の愛する画家(1) 「相原求一朗」-3-

心に響く実際の風景を抽象か具象かを超越して描く相原作品

 相原求一朗を語って三回目(通算四回目)となってしまった。ここでは私の注目する絵画を登場させる。
 求一朗は本名久太郎であり、父の家業を継いだ際には、世襲により茂吉と改名している。そして1965年46歳に雅号を求一朗としている。これは彼が目標が定まって本格的に絵画に集中したときである。
 
  以下は、混迷期を経て、1961年北海道に自己の世界を見いだし、それ以降から1970年代の彼の意欲溢るる時(彼の第二期)の作品群(北海道及び北フランス)である。 (鑑賞:クリック拡大)


(1)

Photo_2
相原求一朗「道-北国の町角」 油彩・キャンバス 1974  112.0×162.4㎝
   (「相原求一朗作品集」1977 日動出版部 より)

 この作品は以前にも紹介したが、彼が北海道の地に自己の目指すものの発見が出来、最も集中した第二期(私の勝手な区分)の作品である。この頃には北フランスと北海道に集中的に足を運び制作している。
 彼の作品の生涯の一つの主題でもあるとも言える”道”を描いているが、画面の構成の骨格であると同時に、奥に流れてゆくこの情景の哀愁は他の追従を許さない。私の好きな作品でありここに登場させた。
 ここに描かれるものは抽象作品を経て又構成主義的アプローチも経て後に出来上がった一つの相原のパターンであると思う。そしてそれよりも大きなポイントは、厳しい北の国の生活の姿が情感を持ってこの一枚で物語っている。

(2)

Photo_3
相原求一朗「廃船のある風景」 油彩・キャンバス 1972 112.0×162.0㎝
   (「相原求一朗作品集」1977 日動出版部 より)

 上の「道-北国の町角」より二年前の作品。北フランスにての作品であるが、彼の心が表現されていると思う。彼の”道”を描く特徴がここにも出ているし、厳しい寒さに耐えての港の姿と、そこに生きる人間模様とが、彼の詩的情感に支えられて描かれている。色の深さにも圧倒される作品。

(3)

Photo_5
相原求一朗「大地・雪どけ」 油彩・キャンバス 1975 130.5×162.5㎝
   (「相原求一朗作品集」1977 日動出版部 より)

 北海道にみる厳冬の荒野は、彼の描く大きなテーマでもある。しかしこの作品には雪解けの姿が描かれ、ただ厳しい暗さのみでなく、春に向かう期待感を失っていないところが相原作品の魅力である。

  相原求一朗の作品の特徴としては、黒と灰色とが織りなす色との技が見事である。これに関しては・・・・・
 彼の作画技法の特徴として、美術評論家のたなかじょう氏によると、描くというより削る操作繰り返されている特徴があるという。まず一般的にはない下塗りの特徴としてアイボリ・ブラックが塗られていて下地は真っ黒な状態。そして半乾きの状態の時に各色の絵の具を乗せては削ってゆくという手法で、最初から中盤まではパレットナイフとローラーなどが使われ、筆は終盤になって使われるのだそうだ。下地が黒であり、乗せられた色がナイフで削られると黒が起こされてその効果が相原流の基礎にあるという。何色が何度も重ねられ削られた上で彼の色調が作られているというのである。
 これも彼が築いた一つの技法であり、そうした目で彼の作品に目を向けてみると、これも又趣が増すというものである。

(4)

Photo_8
相原求一朗「道-広い道」 油彩・キャンバス 1974 112.0×162.4㎝
   (「相原求一朗作品集」1977 日動出版部 より)

 北国の詩情が単純な世界に滲み出ている。

(5)

Photo
相原求一朗「風はやく」 油彩・キャンバス 1978  61.0×91.0㎝
(「AIHARA 初冬の便り-ブルターニュ・ノルマンディー」1979 日動画廊 (個展記念画集) 
より)

 北海道に通ずる世界を厳しい寒さの北フランスの海岸に見て取っていた相原の心情が溢れている。ドーバー海峡の荒磯に初冬に立つ求一朗の姿が見えてくる。この作品は1978年の当地への二度目の取材時のもの。
この旅にては、白い絶壁、ひっそりとした港、波際の灯台、どんよりとした空の下の初雪、荒地の丘、海沿いにじっと耐えて立つ家など多くが描かれた。又何枚かに人物が挿入されているが、ほとんどが奥に向かう背姿を描いている。

(相原求一朗の1960年代の転機について更に次回掘り下げたい)

(絵画公開することにまつわる著作権問題について)
  著作権法第三十二条 に準じて公開しています。ご意見があればご連絡下さい。

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2011年7月 2日 (土)

絵画との対峙 : 中西繁の世界(5) 生涯テーマ「棄てられた街」<3>

「棄てられた街」作品群から何を知るべきか?

 前回取り上げた中西繁の「棄てられた街」作品群のうち、チェルノブイリ原発事故地域の立ち入り禁止区域に入って描いた数ある作品の中で、如何にも虚しさを感じさせられる一枚がある・・・・・

2
小学校(チェルノブイリ・ウクライナ) F130 (中西繁作品集「LAND・SCAPE」より)

 中西繁がチェルノブイリ原発近くの廃墟と化したプリビシャジ村の小学校に入って描いたもの(これもF130号という大作である)。避難時に使用した防毒マスクの残骸が散乱していたという。ここで学んでいた子供達にとって、大人達が作った原子力発電所とは何に思えたのであろうか・・・。そして残念なことに日本でも同じ事が起きていることは・・・・我々は今何をしなければいけないのか・・・・・・。

Photo_2
サラエボの丘(サラエボ ・ ボスニア・ヘルツェゴビナ) F150 (中西繁作品集「LAND・SCAPE」より)

 さて中西繁の「棄てられた街」作品群は多くの問題を提起しているが、もう一つはここに取り上げた作品のサラエボの事件、それはソヴィエト連邦崩壊の進行する中で起きた悲しい事件だ。1984年冬季オリンピックがこのサラエボで開かれ、我々には素晴らしいあこがれの美しい街であった。当時この街がこうした廃墟になろうとは誰が想像したであろうか?。この一枚のF150号の大作をみて俄然とする。林立する墓石の向こうには無惨に破壊された街を望むのである。この作品は私の脳裏に焼き付いて離れない。
 このサラエボの街を包囲した紛争は1992-1996年に起こったもの。所謂「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」だ。ユーゴスラビア共和国の分裂、スロベニア、クロアチアの独立、それに続いてのボスニア・ヘルツゴビナも独立を宣言して共和国を建立。しかし、そこで起こった対立してのセルビア人のスルプスカ共和国の樹立を目指しての戦い。ムスリム人、クロアチア人そしてセルビア人の三つ巴の内戦。結果は破壊と殺戮。そして12000人以上が殺害され、50000人以上が負傷した惨事。更なる悲劇は死傷者の85%は軍人でなく市民であったことだ。
 サラエボの復興開発に関しては、1995年の和平合意であるデイトン・パリ合意があって、その後再興事業がスタートした。そして2000年に中西繁はサラエボを訪れている(チェルノブイリを訪れた前年)。彼の眼にはその無惨な人間の起こした惨劇の跡が焼き付いたことであろう。
 その後の2003年に旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷で、スルプスカ共和国の第一司令官に対して人道に対する罪を認定した。

Photo_3
廃屋II(サラエボ・ボスニア・ヘルツェゴビナ) 5454x2273の左約2/3 (中西繁作品集「LAND・SCAPE」より)

 中西繁は訪れたサラエボの街の廃屋を見て、その中に割れたガラス窓から進入してこの作品の題材を得る。”ミサイルでへし曲がった鉄骨が凄い破壊力を物語っている。壁には手榴弾の製造方法をレクチャーした痕跡が残っていた”と記している。この色彩の押さえた作品は、それによって一層この廃屋の無惨さを表現していると思えるし、私には非常に印象的である。そして大作であるだけに描写も細部に丁寧であるだけリアルだ。
 
 人間が造り破壊していった姿を描いた中西繁の「棄てられた街」作品群は、このように日本のみならず広く世界の各地に及んでいる。そして我々が知るべき何かがあることを訴えていると思う。卓越した絵画的才能と問題意識の産物であると言っていいだろう。そしてそこには実行力も伴っての活動の姿も見えてくる。
 現在活動中の多くの画伯の中で、最も私が注目しているところである。このブログを通して、紹介させていただいた作品に対して、私の独断的評価で三つのポイントを挙げさせていただいたが、これから人生の完成期に入る中西繁の更なる充実した活動を祈念して取り敢えずここで一つの締めとしたい。

(最後に)
 まずこのブログに絵画作品の掲載を許可していただき、更に書きたいことを好きかってに書かせていただいたことに、中西繁先生にお礼を申し上げます。寛大な配慮を有り難うございました。又先生の御名前に敬称を付けませんでしたのは、普遍性を期してのこととお許しください。更にもし何か無礼な点がございましたら”勝手気ままなブログの世界”として重ねてお許しいただきたいと存じます。又先生のブログでも、私のこの「灰とダイアモンドと月の裏側の世界」を取り上げていただいて(2011.6.21)感謝しております。最後に先生のホーム・ページ及びブログを紹介させていただきます。

「中西繁 アートギャラリー」http://www7b.biglobe.ne.jp/nakanishi-art
「中西繁 アート・トーク」http://nakanishishigeru-art.at.webry.info/

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2011年7月 1日 (金)

絵画との対峙 : 中西繁の世界(4) 生涯テーマ「棄てられた街」<2>

人間の犯した悲劇の場を描く

 さて、中西繁の”生涯テーマ”を探っていると、やはり最も重要なものとしてこの「棄てられた街」をあげていいだろうと思う。そしてそのテーマは前回触れた日本においてのみならず、海外にも目を向け世界的規模で既に10年以上の歳月をかけて追求しているものである。

Photo
終着駅(アウシュビッツ・ポーランド) F100 (中西繁作品集 LAND・SCAPEより)

 ナチス・ドイツによる第2次世界大戦下のポーランドの悲劇は、このアウシュヴィッツにて、28民族150万人以上(ほとんどがユダヤ人)が殺害されたという。この作品はその捕らわれた人々が列車でそのまま構内に入り降ろされ場所であるアウシュヴィッツ第2収容所ビルケナウの鉄道引き込み線を描いている。アウシュヴィッツには1940年から1944年にかけて3つの収容所が開所した。その中で最も殺害の多かった問題の収容所。殺害のためのガス室を持ったものが6棟もあったのがこの第2収容所と言われている。この引き込み線は1944年5月に完成し、ドイツ統治下の各国から貨車などで運ばれてきた被収容者をここで降ろし、その時点で”労働者”、”人体実験の検体”、”価値なし”の三群に分けられ、”価値なし”の老人、女性、子供などは7割の多くにのぼり、直ちにガス室に移動され殺害されたのである。
 現在ここをユネスコは「負の世界遺産」に認定され、現存するものは公開されている。
 この有名な引き込み線とその関連施設を描いたこの作品、まさに人間の犯した悲劇を印象づける空しさを観るものに訴えてくる。写真とは違って、絵画という世界でここまで”暗い過去”をこの一枚に収めたのには中西繁の執念を見る思いである。

Photo 左は、そのナチス・ドイツが1943年になると逆に連合国軍による空爆を受け、その結果ベルリンの中心部にあるネオ・ロマネスク教会は廃墟と化した。それが現在もそのまま残されている。ドイツ国民にとっても重要な”負の記念碑”である。それを中西繁は描いたものだ(「カイザー・ウィルフェルム教会(ベルリン・ドイツ)」 F120, 中西繁作品集「LAND・SCAPE」より) 

 ここに描かれた教会の印象は、日本人の我々にとってもあの第二次世界大戦の結末の惨めさが、この現在に迫ってくるのである(広島の原爆ドームを連想させるが、彼はその「広島」もF100号の大作を描いて残している)。多分中西繁もこの姿を絵にせざるを得ない気持ち、つまり人間の犯した空しさをこのF120号の大作で表現したのではないかと推測するのである。

 ここにドイツが関係した作品2点を紹介したが、中西繁にとってはそれに止まらず、地球上に起きている人間の犯した悲しき現象に対して鋭く迫ろうとしている。それは更にその他の作品を観るに付け理解出来るのである。

Photo
進入禁止(チェルノブイリ・ウクライナ) F100  (中西繁作品集「LAND・SCPE」より)

 現在日本で最も重大で深刻な事件は福島第一原子力発電所事故であるが、この上の大作は、10年前の2001年4月に中西繁は通訳同行のみの単独行で、ウクライナ共和国危機管理省の許可をとってチェルノブイリ原子力発電所事故の地を視察したと記しており、その時の作品である。
 1986年に起きたこのソ連(現・ウクライナ)のチェルノブイリ原子力発電所の事故は、その悲惨さが今も進行している。現在半径30Kmは進入禁止となっており、その様子を描いたものだ。 このチェリノブイリ事故による被災者はベラルーシ、ウクライナ、ロシアだけでも900万人以上で、40万人が移住させられたと言う。現在短期間に大量被爆した80万人にものぼる若い事故処理作業従業員の多くは放射線障害により苦しんでいて、いずれこの人達の中から何万人という死者が出るだろうと予想されている。その他にも発電所近郊地域の被爆者の中の住民の特に子供に目立つ甲状腺癌、更には白血病などの多発など現在も問題は終わってはいない。この事故によって被爆の影響による全世界の癌死者数の見積もりとして2万~6万件と推測している学者もいる(京都大学原子炉研究所の今中哲氏による)。これを敢えて描こうとした中西繁は多分我々に作品を通してその哀しい虚しい事件を忘れてはならないと訴えてきているのは明白だ。しかし・・・福島第一原発事故は起きた。  (続く) 

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