文化・芸術

2018年5月29日 (火)

最近のカメラ事情(1)・・・人気のミラーレス・カメラ「SONY α7シリーズ」

[My Photo Album (瞬光残像)]  Spring/2018

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作例
 (我家の庭から・・・薔薇の季節(2)) 
Sonyα7Ⅲ(ILCE-7M3)/ Sony SEL24105G(SEL24-105mmF4G OSS) /73mm, 1/200sec, F4.5/ ISO100

[カメラの話題]

サブ・カメラからメイン・カメラに?・・・・・・

ミラーレス一眼「Sonyα7Ⅲ ( ILCE-7M3)」
 35mmフルサイズ裏面照射型センサー2420万画素、ISO100-51200、
   AF 693点像面位相差AFセンサー(コントラストAF枠425点)、瞳AF
   AF追従高速連写10コマ/秒、177枚連写持続能、4k動画(QFHD:3840X2160)


このカメラの初代「Sonyα7」 が登場したのは2013年。小型でありながらセンサーは驚きのフルサイズ機ということで注目され、既に足掛け5年の経過であるが、昨年11月「SonyαR7Ⅲ」 、今年になって3代目のこのシリーズのベーシック機として「Sonyα7Ⅲ」が登場して、俄然その注目は高まって目下一つのブームを起こしている。
 それも昨年5月には最上級機「Sonyα9」を登場させ、目下のデジタル機の最高峰を伺ったため、この「α」シリーズがSonyの主力機器としての位置がほぼ認知され、ユーザーも安心して対応できるムードにも落ち着いたのだ。

(私も最近この「Sonyα7Ⅲ」に更新(レンズは話題のSony SEL24105G) ↓)

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 カメラもフィルムからデジタルの時代になって、その進歩は著しい。もともと一眼レフの主流となったことすら驚きであったが、今やそれが当たり前で、かってのフィルム・カメラは既に知らない若者が多くなってきたことで、我々自身も自分の歳を感ぜざるえないところとなっている。

 又、そのデジタル機も当初は簡便な「デジタル・コンパクト・カメラ」でスタートして、そのブームもすざまじかった。しかしそれも既に「スマート・フォン内蔵カメラ」にその道は譲ってしまっている。そしてカメラ業界もなんとなく低調時代に入ってしまった。
 しかし・・・時代は思わぬ展開がするもので、そんなスマート・フォン・カメラ流行で、今度はそれ以上を求めて、デジタル・コンパクト機も高価で高機能なモノは再び注目を浴び、若い連中にももてはやされる時代となった。

Column6_img_02 一方、既に本格的な高機能多機能なカメラとして主流になった「デジタル一眼レフ・カメラ」もここに来て危うい状況が生まれてきたのである。それが「ミラー・レス一眼」の高機能化である。
 もともと一眼レフ・カメラは、ハイレベルのファインダーが撮影者にとっては重要で、その撮影のための見える像はレンズを通して来た光をミラーで反射し、その光をプリズムを通してのファインダーで見ていた訳だが(右図:撮影時はミラーが跳ね上がって光がセンサーに当たる)、その為この性能を上げるためには、かなりの装置に費用が掛かっている。
 ところが、右図下のようなファインダーで見る像は、ミラー・プリズム装置を無くして、撮影用のイメージ・センサーで受けた光の像を電気的に直接見て撮影対象に相対するという方法がここに来て有力になった。それはそのセンサーの受けた像をエレクトリック・ビュー・ファインダー(EVF)で、かってのプリズムを通してみていた像に負けない像がほぼリアルタイムに見られるようになって来たと言うことが大きいのだ。こうして光学的装置からエレクトリックな装置でまかなうようになった「ミラー・レス機」が注目されているのだ。それは余計な装置が減少し、費用は下げられ、又フランジバック(レンズ・マウントからセンサーまでの距離)が短いなどもあって、カメラの大きさも小型化出来るというメリットが大きいためだ。

7konica もともとコニカ・ミノルタ・カメラの技術陣がソニーに移って、過去の遺産を受け継ぎながらカメラを製造していたわけだが、「デジタル・一眼レフ」は相変わらず、ニコン、キャノンの天下であった。しかしソニーは、このミラーレス機能を発展させ、もともと持っていたミノルタαシリーズ一眼レフの高技術を合体させ、エレクトリック機能の高度化による高機能「ミラー・レス一眼レフ」に力を注いできた。
 そして2013年に出現した「Sonyα7」機(私の初代機↑)は、レンズ群は、当時まだ十分揃ったとは言えないが、マウントを使うことによってほぼあらゆる過去の多くのメーカーのレンズを使うことが出来るように設計されていた為に人気機種となったのだった。

Img_1001tr そして今年発売されたこの新しい「Sonyα7Ⅲ」機も同様で、私の場合、右のように主にライカ・レンズを付ける事が多い(→)。それも「ニコン・フルサイズ一眼レフ」機のサブ機感覚なんですね。又キャノンの一眼レフ機用レンズはマウントでその機能を生かしたままこのカメラでも性能発揮して使えるのである。

 今やこのシリーズのベーシック機と言われているこの「α7Ⅲ」が、なんと像を感知する”デジタル・センサー”と”オート・フォーカス機能(瞳AFが話題)”更に”シャッター機能(10コマ/秒)”などにトップ・レベルの優秀な機能を発揮しており、しかもフルサイズセンサー機として驚きの小型化が成功して、人気も最高潮に達しているのである。

Sel24105gtr こんな人気の中で、ソニーも、このαシリーズ・カメラへの純正レンズのラインナップをもかなり充実しつつある。中でも驚くことに最近発売したこのカメラ対応のレンズである「Sony SEL24105G(SEL24-105mmF4G OSS) (→)は、値段もリーズナブルで、性能も手頃。又ズームは一般標準利用範囲での24-105mmとカヴァー範囲が広く超人気レンズとなった。そしてこの春から異常状態で、なんと現在も生産が間に合わず、注文から手に入るまで2ケ月位待たされるという事態となっている(事実私も1ケ月半待たされた)。そして今時は価格は発売から次第に下がるのが通例だが、これは2017年11月発売し6ヶ月の経過があるにも関わらず、下がらずにいて、ソニーの希望価格よりも高値で動いているところもある始末だ。

Slide_01w 又、このαシリーズに対応用として初めてレンズ・メーカーのタムロンも、ここに来て新レンズ「TAMRON Model A036(28-75mm, F/2.8)」(←)を発売。これも手頃の価格で、性能も良好と言うことで好評。なんとこれも注文が多く、製造が追いつかず、やはり購入するには、待たされるという事態が起きている。
 今時、こんな事態はカメラ販売では珍しく、如何にこの”Sonyαシリーズ”の人気が高いか解る。当に「一眼レフ・カメラ」から「ミラー・レス・カメラ」への流れが本格化してしまった訳である。
 そこで既にキャノンもミラー・レス機に着手。多分ニコンもおそらくこの流れに追従することになるだろうと思われる。いよいよカメラ業界も又々大きな転換期となって来たのである。
 そして私の場合でも、・・・・・どうもこのミラーレス機がサブ・カメラからメイン・カメラになりつつある事を感ずる今日この頃なのである。

(参考)

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2018年5月26日 (土)

中西繁傑作作品「雨の舗道」

[My Photo Album (瞬光残像)]  Spring/2018

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(我が家の庭から・・・・薔薇の季節)

[絵画の話題]   中西繁作品

縦位置構図と横位置構図の意味するところは・・・・

  中西繁画伯の数多い傑作の中の一枚と私は思っている「雨の舗道」(F130号大作)という作品がある。これは画伯が2004年から2年間フランスへ留学した(モンマルトルの100年以上前にゴッホの住んだ部屋にアトリエを構えた)時に、その構想と作製に関係した作品と推測しているが、2007年の日展に出品されたものだ。
 サクレクール大聖堂のあるモンマルトルの丘、その北側の周回する並木道コーランクール通りの一枚だ。

□ 雨の舗道 (F130号) 2007年作品

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 この作品は130号という大作ですが、夕方であろうか、雨の降る葉も落ちた季節のコーランクール通りの舗道を一人の婦人が笠をさして歩いて行く。着ているコートからもう寒い季節を迎えての冷たい雨だろう。手には赤い袋を提げている(これが又一つのポイントになってますね)。私は個人的な勝手な決めつけで、これは決して若い婦人ではないと思っている。まだ明るさの残った空が濡れた舗道に反射し、そこに移る婦人の影は華々しいフランスの通りにしては、後ろ姿であるだけに何故か陰影のある哀感を感ずるところだ。左の人間謳歌の時代を反映する若者のビキニ姿の看板。これとの対比が更にその印象を強めていると思っている。
 私はこの葉の落ちた木の枝によって描かれるパリ風景が好きであって、この作品のように周りの建物などが更に味わい深く感じられる。路面の車のライトの反射など気分を盛り上げている。又、雨に濡れたベンチ、舗道には孤独な鳩が一羽歩んでいるのも印象的。心に感じさせる叙情詩的な素晴らしい作品である。

 とにかく中西繁先生のフランス・パリに纏わる一連の作品は、このように素晴らしいのであるが、ここに「雨の舗道」を取りあげたのには、ちょっと理由がある。

 次の作品を見て欲しい。

□ 雨の舗道 (3.5m× 2.5m 大作)  2018年作品

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 さてこの上の作品は、中西繁画伯による今年製作されいるなんと3.5メートル(6.5X2.5mと記されていたがおそらく 3.5x2.5mだと思いますが)を越える大作のようでである。それは、先日先生のブログ「中西繁アート・トーク」でほぼ完成したと書かれていたのを見ただけであるので確実のところは言えないのですが・・・。

Photo 今作はなんと横位置の大作であった。少しづつ2007年作と比べると描いたところに異なる場所もある。まず気になるのは婦人の正面奥の街路樹が大きく描かれていること、左のベンチが無くなっていること、この舗道の車道寄りの街路樹の幹の形が異なっていること、画面が縦構図から横になり左右に広くなったため、車道にはむこうに向かう車が描かれた。広い舗道もやや昇り坂に見えたモノが、横に広く構図をとって、やや平らになった。そしてこれは意味があるのかどうか、婦人の持っているバッグもしくは下げ袋の赤がやや派手さが押さえられた。やはり舗道の手前には孤独な鳩がいる。


 そこで私が最も問題としたいのは、縦位置から横位置に変わった構図である。これはおそらく3メートル以上の大きさの大作であるから、縦も2.5mあって、物理的に横にせざるを得なかったのかも知れないが・・・・・?。
 ・・・・と、思いつつも実は私は縦位置が好きであるため、ここに少々その変化を書きたかったのである。もともと人間がこうして見たときには、横位置の方が安定感があると言われている。しかしこの2007年の原作品の方は、縦位置の構図であって、それが又私は好きなのである。更に、縦構図では画面半分から下は舗道を描いているのであるが、これを広く取った意味は大いにあると思っているからである。その遠近感がたまらないのです。
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 まあ昔から右のような黄金図形(長方形)(縦横比1:1.618=この黄金長方形から右の図のように、最大の正方形を除くと、残った長方形がまた黄金長方形の比率になり、そこからまた最大の正方形を除くと、永遠に相似な図形ができていく)と言うのがあって、最も人間が安定して見れる構図はこの横位置長方形なんですね。そしてどのような比でも横位置が安定感がある(この絵画は1:1.4か?)。
 しかし私は縦位置の不安定感に実は凄く惹かれるのです。まあこれは私個人の感覚ですからどうしようも無いのですが・・・・。しかしこの絵はやや暗さも一味あって、ならばこそ安定感にない縦位置であって欲しかったと思うのは偽らざる気持ちなのでした(しかし大きさから無理な話と思いますが・・・)。・・・しかし見方によっては、この大きさですから前に立った鑑賞者にとっては、この横位置の中に入っての臨場感は凄いと思います(「赤レンガ倉庫展」に向けたものでしょうか)、その為の横位置かも知れません。画伯は今回はそれを狙ったのかも・・・・とも推測されます。

そこでもう一枚(↓)。

□ 雨のコーランクール (F130号)  2007年

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 これは上の「雨の舗道」と対をなすコーランクールの一枚ですね。これも傾斜のある道路の広い舗道の一枚です。雨上がり直後のようです。舗道の描写が素晴らしく圧巻です。これも素晴らしい作品ですね。しかし私の眼から見ると、「雨の舗道」とは全く印象が異なります。その決定的なところは、やはり舗道を歩く婦人が描かれていますが、この作品では、こちらに向かってくるところが印象を変えていると思ってます。こちらはやはり夕方と思いますが同じ暗さでも、見る印象は明るいのです。ここにも孤独の鳩が登場しますが、ここでは孤独と言うよりは、可愛く感じます(不思議ですね)。そして私はこの作品の場合はこの横位置が良いと思います。不安感の無い光景なのです。

 ・・・・と、縦位置横位置の構図というのは私にとっては大いにそれぞれ意味有りで楽しいのです。

<参考までに・・・>
W 中西繁先生の絵画では、実は縦位置はそう多くない。しかし右に見るように・・・・
「終着駅(アウシュビッツ・ポーランド)」(F100号)(→)という作品があるが縦位置である。
 あの忌まわしい第二次世界大戦の虐殺の代名詞だ。このビルケナウの収容所に入った線路と向こうにゲートの建物。これを描いた日本人画家は他に私は知らないが、これを描かなければならなかった中西繁画伯の心を知らなければならないだろう。この大部分を締める線路と遠くのゲートであった建物とのバランスのこの構図が、縦位置での印象を倍増している。
 戦争は許せない。(現在ポーランドでは、ここは「負の遺産」として公開している。数年前に私も訪れてみたが、あえて現在は暗い印象の無い景色となっている。しかし絵には心がある。見るとおり、この絵には明るさは無い)

中西先生へ・・・・先生の肖像および絵画を無断で掲載させて頂いて申し訳ありません。問題がありましたらご連絡ください。対応いたします。

(参考)

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2018年3月 5日 (月)

抵抗の巨匠・アンジェイ・ワイダの遺作映画「残像」

画家(芸術家)の生きる道は?、芸術の表現の自由は?

<ポーランド映画>
アンジェイ・ワイダAndrzej Wajda監督 「Powidoki (残像)」
DVD / ALBATROS / JPN / ALBSD2157 / 2017

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 ポーランドの映画「灰とダイヤモンド」で知られる抵抗の巨匠アンジェイ・ワイダ監督(1926-2016)の遺作である。第2次大戦後のソビエト連邦下におかれたポーランドで社会主義政権による圧政に不屈の精神で立ち向かった実在の前衛画家ブワディスワフ・ストゥシェミンスキ(1893-1952)の生涯を描いたドラマ。日本では昨年6月公開映画だが、DVDで私の愛蔵盤としたいために昨年末にリリースされたDVDにより鑑賞したもの。

2008_04_22__andrzej_wajda_2監督 アンジェイ・ワイダ (→)
製作 ミハウ・クフィェチンスキ
 
脚本 アンジェイ・ワイダ、アンジェイ・ムラルチク
撮影 パヴェウ・エデルマン(映画「戦場のピアニスト」)
音楽 アンジェイ・パヌフニフ
美術 インガ・パラチ

 (キャスト)
ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ : ボグスワフ・リンダ
ハンナ(学生) : ゾフィア・ビフラチュ 
ニカ・ストゥシェミンスカ(娘)  : ブロニスワバ・ザマホフスカ
ユリアン・プシボシ(詩人) : クシシュトフ・ビチェンスキー
ヴウォジミェシュ・ソコルスキ(文化大臣) : シモン・ボブロフスキ
ロマン(学生): トマシュ・ヴウォソク

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 とにかく90歳になろうとしていたアンジェイ・ワイダの作品である。彼はこれを最後の作品と思って制作したのだろうか?、あの名作「灰とダイヤモンド」(1958年ポーランド映画)をオーバーラップしてしまう同時代の「己の芸術の魂には妥協が許しがたいという生き様の芸術家」を描くことにより、自らの人生をも描ききったのであろうか。

 映画は、自然の緑の美しい草原にて「絵画と芸術」を語るところから始まる。あのナチスドイツに支配され、アウシュヴィッツ収容所にみるがごとき忌まわしいホロコーストの時代をようやくのこと克服してきたポーランドの平和な姿が描かれているのだ。
 しかし彫刻家の妻カタジナ・コブロと共にポーランド前衛芸術の基盤を築いた主人公の画家ストゥシェミンスキは、アトリエにての描こうとしているキャンバスは、真っ赤な色に変わった(この映画の不吉な「赤」からのスタートは上手いですね)。これはソ連共産主義社会のスターリン像の赤い旗が窓を被ったからであった。
 これは戦後のソ連の属国化したポーランドに於いて、スターリン全体主義思想に支配された中で、自由な表現活動を追求しようとする芸術家の抵抗の孤独な闘いを描いた作品である。欧米の自由主義思想を敵視し、それを根絶しようとする国家主義による圧政の恐ろしさは、主人公の芸術家人生が追い詰められていく姿、又生きるために自己を否定してゆかざるを得ない一般庶民の姿、これらを観るものに現実の厳しさをもって迫ってくる。

640b<アンジェイ・ワイダのテーマは?>
 一方、この映画に出てくるセリフには多くの考えさせられる言葉が・・・・
▶「”わたし(芸術)”は”イデオロギー(社会に支配的集団によって提示される観念=ここでは国家)”より優先する」
▶「残像とは、人がものを見た後の網膜に残されるイメージと色だ」
▶「人は認識したものしか見ていない」
・・・・などなど。
 単に芸術にまつわる含蓄のある言葉と捉えて良いものか、多分単純にそうではないと思うのである。
 共産主義の「赤」、娘のまとうコートの「赤」、妻の作品にみる「赤」など、おそらくここでは「赤」は一つのテーマにしているのだと思う。そして愛妻の美しい瞳の「青」と対比している。そしてこの「青」は「残像」として認識される「赤」の補色(緑みの青=シアン)であるからだ。そしてその補色関係にある両者の色にワイダは意味づけを込めているだろう事を知るべきだ。補色により色は輝くのである。このあたりは単純では無い。
 
800pxdmitri_shostakovich_2<スターリンの圧政>
 この映画を観るに付け、一方私の頭をよぎるのは、ソ連の作曲家ショスタコーヴィチ(→)の生き様である。やはりスターリン時代に生き抜いた彼の人生も、属国となったポーランドのみならず本国に於いても当然その圧政との闘いであった。「私の交響曲の大多数は墓碑である」(ソロモン・ヴォルコフ編「ショスタコーヴィチの証言」)と言わしめた彼の作品。避難と呪詛を浴び、恐怖にとらわれながらも、音楽だけが真実を語れると信じて生きようとしたショスタコーヴィチ。ソ連の芸術家の抵抗と絶望的なまでに困難な状況の過酷さは、ポーランドにおいてもこの前衛画家ストゥシェミンスキにみることが出来る。

<この映画の流れ>
 とにかく政府当局の迫害は更にエスカレートし、この画家は社会主義リアリズムを求める党規則に反する独自の芸術の道を進んだ為、名声も尊厳も踏みにじられ、教授職を解かれ身分保障も剥奪され、更に作品をも破棄され、食料配給も受けられないばかりか画材すらも入手困難に追われる。
 病気の身となり、死が迫ってきた彼は、失った妻の為に最後にすることがあると、妻の墓地に敢えて白い花を赤の対立する補色の「青い花」に染めて捧げる。困窮の果てに彼は動くことすら容易でない身で職を求め、裸体のマネキンが並ぶショウウインドーの中で倒れ込み、悲惨な死を遂げる。
 しかし・・・・ここには救いはないのか?、抑圧によるこんな困窮の生活の中で母を喪い、尊敬する父をも喪った幼き娘ニカ(1936-2001)(↓)の姿にみえるたくましい生き様が私には印象深く救いでもある。(参考:実際には、彼女は後に精神科医となり、回想録『芸術・愛情・憎悪――カタジナ・コブロ(母)とヴワディスワフ・ストゥシェミンスキについて』を遺したとのこと)

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★ 監督アンジェイ・ワイダは・・・・
 一般に言われるとおり「レジスタンス」の人と言って良いだろう。彼の90歳の人生の中で、彼が求めた「祖国への愛」「自由」は、”ドイツ・ナチの残虐性に対する抵抗”でもあったのは当然だが、むしろ更なる国家全体主義による人民を抑えつける圧制、特にスターリンに代表される国家の名の下に行われる独裁政治による粛正と圧政、そして残虐行為、これらに対する抵抗が人生の全てであったと思われる。何故なら彼は亡命して生きる道もあったにも関わらず、一時は所在・生死すら解らない状態で(事実は解らないが、一時投獄されているという噂もあった)自国ポーランドにて闘い、ようやくにして1989年以降の解放のポーランドを迎えたのであった。
 既に哀しき時代に生きた彼も亡くなって今年で2年になろうとしているが、過去ばかりで無く現在においても、この作品にみる共産主義国の国家的統制社会のみでなく、如何なる国に於いても何処に於いても国家主義・全体主義の名の下に起こりうる悲劇を我々に教えているように思う。

一人の人間がどのように国家に抵抗するのか。
表現の自由を得るために、どれだけの代償を払わねばならないのか。
全体主義の中、個人はどのような選択を迫られるのか。
これらの問題は過去のことと思われていましたが、
今、ふたたびゆっくりと私たちを苦しめ始めています。
・・・・これらにどのような答えを出すべきか、私たちは既に知っているのです。
このことを忘れてはなりません。
                      (アンジェイ・ワイダ 2016年初夏)

(参考映像)

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2017年10月28日 (土)

この10月は、ちょっと「城巡り」

やはり「日本の城」に向かうと気持ちが落ち着きます

 この10月は所要であちこちと行くことが多かったので・・・・・・ついでに立ち寄れた「城」を取りあげるが、「城」を前にすると気持ちが騒ぐので無く、落ち着くところが不思議である。

(ついでに勉強)日本の城の天守閣は5つタイプに分類されている
 
 ■ そのまま現存している天守
     ①現存天守 : 江戸時代からのそのまま現在に残った天守
 ■ 復元した天守
     ②木造復元天守 : 図面をもとに忠実に復元
     ③外観復元天守 : 図面の外観のみ復元
 ■ 忠実な再現なし
     ④復興天守 : 天守はあったが忠実な再現はせず
     ⑤模擬天守 : 本来は天守なしの場合に作られたもの 

 

■ [犬山城] (現存天守)  2017.10.10

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 この犬山城を訪れるのは今回で二度目。「現存天守」は日本には12のみですね。そのうちの一つがこの愛知県犬山市・木曽川のほとりの小高い山の上の犬山城だ。これは室町時代の天文6年(1537)に建てられたもので、国宝(通称:白帝城)だ。
 天守は現存する日本最古の様式とか(望楼型・三層四階地下二階・複合式天守)。築城者は、織田信康(織田信長の叔父)。信長・秀吉・家康が奪い合い、歴史の荒波を生き残った城。中の急な階段を上ると本物という実感があります。

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                                   (天守最上階よりの眺め)

(参考)
「現存天守」
 全国見渡してわずか12城しかない。それは弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城、の12城。
 第二次世界大戦までは名古屋城、岡山城、広島城、大垣城、福山城、水戸城、和歌山城、松前城といった城郭が現存していたんですね。戦災のため焼失してしまい、現在はこの12城を残すのとなってしまった。

[大垣城] (外観復元天守) 2017.10.7

Photo これは全国的にも珍しい4層の天守を持ち、”城下町・大垣”のシンボルの大垣城(岐阜県大垣市の街中にある)。「外観復元天守」である。
 慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは西軍・石田三成の本拠地にもなっもの。
 江戸時代、寛永12年(1635年)以降には戸田家11代が十万石の城として存在。
 1873年(明治6年)に発布された廃城令により、例の如く廃城となったが、天守など建物は無事残って、1936年(昭和11年)には、天守等が国宝に指定された。しかし1945年(昭和20年)7月29日の大垣空襲により天守や艮櫓などが焼失した。
 天守は1959年(昭和34年)に、乾櫓は1967年(昭和42年)に鉄筋コンクリート構造で外観復元された。
 2011年には、焼失前の外観に近くなるように改修された。
 今年(2017年)春に、続日本100名城(144番)に選定された。
 今回は二度目の訪れだが、非常に美しい城で、内部は資料館。

■ [新発田城] (木造復元天守) 2017.10.22

Photo_2 新潟県新発田市の新発田城は、「あやめ城」とも呼ばれ、初代新発田藩主の溝口秀勝が慶長3年(1598年)に築城し、3代宣直のときに完成したもの。

 石垣がすき間なくかみ合うようにきちんと積まれる「切込はぎ」と呼ばれる美観を重視した技法でつくられ、北国の城特有の海鼠壁は全国的にも珍しいものという説明がある。

 この新発田城は、もともと本丸、二の丸、三の丸からなり、がっちりとした石垣と堀に囲まれ、新発田川の水を巡らせた平城で、11棟の櫓と5棟の門で構成されていて壮観そのものであったと言う。中でも、天守閣の代わりを果たしていたのが三階櫓(↑)だ。写真の如く3匹の鯱を配するという独特の櫓で、全国にも例がない珍しいものとか。この三階櫓、辰巳櫓が図面に沿って忠実に平成16年に復元されたもの(「木造復元天守」で貴重)。
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 雨の日に訪れたせいもあるのか、非常にしっとりと落ち着いた城址である。ここは私は今回初めて訪れた。そのまま残っている表門も立派。
 現在陸上自衛隊の駐屯地でもある。

 [大阪城] (復興天守) 2017.10.8

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 天下統一をほぼ手中にした豊臣秀吉によって、天正11年(1583年)に石山本願寺跡に築造が開始され、1年半かけて建てられた”大坂城”。秀吉が実力共にナンバー1となった時のもので、所謂”太閤さんのお城”と言われるものだ。屋根には三角屋根を乗っけた千鳥派風、金箔の虎の飾りを付けた黒漆喰の壁、更に金箔瓦など、まさに当時の秀吉の栄華の象徴である絢爛豪華な造りが特徴。大坂冬の陣・夏の陣とで落城したのち、江戸時代に再建されたが、残念ながら落雷によって焼失。

Photo_5 現在の天守閣は、昭和6年(1931年)に市民からの寄付によって、大阪市により初代の秀吉時代の天守を描き建てられたもの。しかし戦争によって一部は焼失したが、その後修復されて現在の姿となっている。「復興天守」の範疇に入り、かってのものの忠実な再現性は低いもので、その意味に於いては価値は低い。明治以降、”大坂城”でなく、”大阪城”と言われるようになった。
 年間100万人以上が訪れているらしい。 多くの城の中では、スケールの大きさ、派手さはナンバー1だ。大阪っぽいです。
 今年私は久しぶりに好天の日に訪れたが、観光客でごった返していて、中国を筆頭に多くの外国人が圧倒的に多く、とても歴史に心を馳せるという気分にはなれない。写真を撮って早々に退散した(写真はこの日の大阪城)。

(犬山城)

              *          *
(大垣城)

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(新発田城)

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(大阪城)

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2017年8月15日 (火)

「吾唯足知」~吾、唯足るを知る

龍安寺の「知足の蹲踞(つくばい)」の教えるもの

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                                     (龍安寺蹲踞)

 毎年所謂「お盆(盂蘭盆会)」を迎えると、祖先の霊を供養しつつ、少しは”人”と言うものを考えることがある。

 昔、修学旅行と言えば京都でした。そして有名な「石庭」(枯山水の方丈庭園)を見るために訪れるのは龍安寺である。この寺は室町幕府の管領、守護大名で、応仁の乱の東軍総帥でもあった細川勝元(禅宗を信仰、自ら医術を研究し医書「霊蘭集」を書き、さらに和歌・絵画にも優れた才能を発揮したという文化人でもあった由)が宝徳2年(1450年)に創建した禅寺だと言う。

13092356_164839750580865_581808009_ 実は、この寺にはもう一つ有名なモノがある。それは上の写真の「知足の蹲踞(つくばい)」だ。この一般公開されているものは、方丈(寺院の住持や長老の居室)の北側にあるが、実は本物は非公開の茶室「蔵六庵」の露地にある(→)。蹲踞は茶室に入る前に手や口を清めるための手水鉢(ちょうずばち)のこと。水戸藩主徳川光圀公の寄進によるものと伝えられている。
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 この蹲踞には右のように「五・隹・疋(但し、上の横棒がない)・矢」と刻まれている。水溜めに穿った中心の正方形を漢字部首の「口」と見れば、上から時計回りに「るをる」となる。「知足のものは貧しといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧し」という禅の格言を謎解き風に図案化したものと見られてきた。
 解りやすく言うと”満足することを知っていれば、人生は幸福に満たされ豊かと言える”とか、”足りないと嘆くより、足りていることに感謝せよ”ともとられている。この教えはなかなか含蓄のあるもので、現在まで多くの人に支持されている。
 しかし、私流に解釈すると、そのことは教訓として重要だが、”常に足りないものを知り、得ようと努力し、向上心を持ち続けること”に繋げなければ意味無いのではないか、とも思うのだが。

 ☆ もう一つ、下に写真を公開する・・・・・・

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  これは、上に紹介した龍安寺の「知足の蹲踞(つくばい)」に非常によく似たものだが、実は私の家の庭にあるのである。10年前に住宅を移築した際に、私の希望で和風の庭を造ったのだが、これは私の希望というので無く、お願いした庭師さん(親類で今はもう引退している)に全てをお任せしたところ作り上げたものである(考えて見ると、私に教訓を垂れたのかも)。この蹲踞の上には、既に解体した古い我が家にあった山茱萸の老木が移植され枝を垂らしている。
A2w 日常的にこれを眺めて居るわけであるが・・・・特に冬期に多いのだが、小鳥がどこからともなくここに来て水を飲んだり、又我が家からプレゼントしたリンゴを突いたりしている。
 そしてこれは常に「吾れ唯だ足るを知る」を私に言い聞かせているのであるが・・・・なかなかその境地に落ち着けないでいる。つまり歳の割には何時までも若輩ものの私なのである。

               *          *          *          *

(追加)

Kyotoryoanji_mg_4512方丈庭園 - 今回話題の所謂「龍安寺の石庭」である。幅 25 メートル、奥行 10 メートルほどの空間に白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15の大小の石を配置する。この庭はその石の配置から「虎の子渡しの庭」や「七五三の庭」の別称がある。
 この庭と蹲踞との関係もあって、「虎の子渡しの庭」とは、話が長くなるので別の機会とするが・・・・、「七五三の庭」とは、東から5、2、3、2、3の5群で構成される石組を、5と2で七石、3と2で五石、そして3で三石と、七・五・三の3群とも見られることによる。古来より奇数はおめでたい数と扱われてきた。この石庭は、どの位置から眺めても必ずどこかの1つの石が見えないように配置されていることでも有名なのである。
 そこで、蹲踞の「吾唯知足」には「われ、ただ足る」という意味があって、石庭の石が「一度に14個しか見ることができない」ことを「不満に思わず満足する心を持ちなさい」という戒めの意味が込められているのだという話もあるし、一方「足りないものを見つめ、今の自分が存在することを心から感謝することを忘れてはならない」という想いが込められているとも言われる。

(龍安寺を観る)

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2017年3月17日 (金)

[Culture]ボールペン文化・・・万年筆を超えられるか?

最高の書き味のボールペンは???

 このブログの事の始めは、「日頃の興味話」をと思っていたのですが、いつの間にかミュージックに偏ってしまっている。しかしそれも当然の結果だったのかも知れません。これからも多分そんな姿が続くのかとも・・・・・と、言うところなんですが、時には身近な雑談も良いのかなぁ~~と・・・・今日はこんな話になりました。

■前置き■
 私のように歳も重ねたものは、重要文書をボールペンで書くというのは未だにピンとこない。又一般の記録物にも、その書き味も昔の万年筆文化で育った者としては納得出来ないのである。しかもつい最近までは、ボールペンで沢山書くと、とにかく手が疲れる。

P2221721w

愛用の万年筆
SHEAFFER
(←)

Zebra_g_2 勿論、仕事場に於いては、私はつい最近まで「Gペン」(→)にインクを付けて書いていたのだが、周囲から嫌がられて、最近はしぶしぶポール・ペンを使うようになった。(驚いたことに”つけペン”と言われる「Gペン」って知らない若者が多いのですね。あれほど書きやすく、値段も安くて便利なものを知らないとは・・・)
 又、ちょっと書類などにサインしてくださいと言われたときに、万年筆を出すと不思議がられる・・・変な世の中になったものだ(私的感覚)。

 かって私の師匠は、「記録というのはブルー・ブラック・インクで書きなさい」と指導された。それはこのインクは時間を経るに従って質が変化して、水につけても溶け出さないで滲まなくなる上に、時間の変化もおおよそ解ると言うことであった(従って書類に年を経てから追記した場合、その事は解るのだ)。今もそのブルー・ブラックは私の愛用インクだが、書き味から”PARKER”のものと決めている。それははっきり書き味のなめらかさが違うからだ。もうかなり前だが、並べて比較してみても国産はとても敵わなかった(ここに来ての現在はどうだろうかは不明)。ただしその成分などは未だに研究したことが無いので何故かは知らない。

■主題■
 さてところが驚いたことに、近年のボールペンの変化も著しい。それは非常に滑らかに書きやすくなったことだ。従ってこれならば私は書類を書くに当たって納得出来るのである。
 とくに油性のインクによるボールペンが一般的であるが、書き味が良いという水性のゲルインクのボールペンも現れている。又書かれた線の太さにも太字・細字のタイプもあって、用途によって使い分けられる。

Photo(←)水性ゲルインクの書き味No1は、「ペンテル・ENERGELエナージェル」でしょうね。

      *        *        *


 さて、ここでは従来からの「油性のもの」に焦点を当てると、まあ若干細めではあるが、目下私が一般的には使用するようにようやくなったのは、標準タイプの0.7mmというタイプだ。それも近年の書き味の滑らかさの改良は著しく、このところは最も良いと思ったものは、一世を風靡した「三菱鉛筆・JETSTREAMジェットストリーム」であった。

Photo_2 ところが、近年更に滑らかさと、線の美しさでの私の評価では、No1に躍り出たものがある。
 それは「ぺんてる・VICUÑAビクーニャ」だ。目下私はその中で右のタイプ(多機能ペンEX3シリーズBXW3375 0.7mmタイプ)を愛用しているのだが、その滑らかさは抜群である。又書いた線の安定性も良く、黒も美しい。ここまでポールペンは改良されたかと感動しているのである。

 そして更にこの改良時代なら、その他のものはどうかと研究(笑い)を進めたのであるが、以前から時には必要で使用していた名門ドイツ製「モンブランMONTBLANCも更に改良されているのでは?と思い、さっそく最近のレフィルを取り寄せて入れ替えてみた(↓の写真の上がもう10年以上前のもの、下が先日取り寄せた新しいMystery Black というレフィルである。ちょっと注意が必要だが、このように見た目は新旧同一ものに見えるが、ノック式のペンにおいて取り替えてみると若干先端の出方が小さく異なっていた。何かの理由によって変更されているようだ)。

P2221718w

 しかし残念ながらこのモンブランMONTBLANCは、日本の近年のものには書き味の滑らかさにおいて全く及ばない。いやはや恐るべし日本の文房具メーカーだ。

 そこで、やや太めの線を描いてくれるボールペンも欲しいと言うことで、今度は諸々のメーカーのものを試し書きしてみたが、なんと太めでは「PILOT CUSTOM 74」(アクロインキ使用)がなかなか良好であった。

P2221715w

 写真(↑)、上部のレフィル・ケースに乗せてあるのが10年前のレフィルを近年のモノに交換したMONTBLANCのボールペン。手前が先日購入した「PILOT CUSTOM 74」である。

 まあ、書き味の好みは人それぞれと思うが、ここでの評価は全く私個人のものであり、特に滑らかさに焦点を当てての感想だ。(皆さんはどうですか?、良いモノがあれば教えて欲しいです)
 こうして万年筆から、時代に遅れることのないよう日本の「ボールペン文化」になんとか適応しようと心がけているのであるが・・・・・・・・。
 しかしまだまだ・・・・私の万年筆文化は続くことと思っている今日この頃です。

(参考視聴)

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2016年10月15日 (土)

アンジェイ・ワイダAndrzej Wajda監督 波乱の人生に幕

多くの教訓を残して90歳で死去

640  悲しい訃報ですが、'50年代後半からポーランド映画界での活躍によって、映画史に残る映画監督・巨匠アンジェイ・ワイダ Andrzej Wajdaが10月9日に亡くなった。90歳でした。

 初期の代表作「抵抗三部作」と言われる(「世代」、「地下水道」、 灰とダイヤモンド」)でも日本でも広く知られて来た訳だが、ポーランド社会の宿命的苛酷な運命を描き、それは国際的評価を得た。ポーランドの激動の時代に波瀾万丈の人生を生き抜いて来たワイダは、映画を通じて我々に多くの教訓を残してきた。

58_ その多くの作品の中でも、まず「灰とダイヤモンド」(1958)は、私の映画史に於いても重要な位置にある。ドイツ・ナチス占領下からドイツ降服に至った直後の1945年のポーランドを背景に、そこにみたソ連共産主義統治下の圧政に対しての抵抗組織に属した青年を描いたもの。その彼が労働党書記を暗殺しようとすることで起こる暗い悲劇の物語だ。ゴミ捨て場で人間の価値観も感じられない虫けらのように息絶える主人公のラストの姿の虚しさを見るにつけ、歴史に翻弄されるポーランドの悲劇そのものを描いて衝撃的でした。

   アンジェイ・ワイダは、1926年、ポーランド北東部スヴァウキ生まれ。第二次世界大戦中は反ナチスのレジスタンス活動に参加した。ウッチ映画大学を卒業後、1954年に「世代」で監督デビュー。常にポーランドを愛し、この国の苛酷な運命を描いた。
   81年には、ポーランド民主化を率いた自主管理労組「連帯」を題材にした「鉄の男」を発表し、カンヌ映画祭のパルムドール(最高賞)を獲得した。だが同年の戒厳令で映画は公開禁止となり、映画人協会長の職を追われた。その後一時消息不明となる。
 しかし民主化激動の89~91年には上院議員を務め、連帯議長から大統領に就任したワレサ氏の諮問機関「文化評議会」の議長に就いた。

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 2000年以降も80歳という高齢でありながら、創作意欲はすざまじく、ソ連によるポーランド軍人らの2万人以上と言われる大量虐殺事件が題材の「カティンの森」(07年)を製作した。この映画の描く虐殺された軍人の一人は彼の父親でもあったことから、ワイダにとってはようやく自由を勝ち取ったポーランドで描かざるを得なかった宿命の映画であっとも言える。この映画が日本に紹介されるまでは、彼の存在すら明らかで無く、投獄されていたという話もあった時期があった。その為この映画の出現は、映画以上に私にとっては驚きを持って歓迎したのであった。

 更にポーランド民主化への労働者に生まれた運動を描いた「ワレサ 連帯の男」(13年)などを発表した。もうここまで来ると映画の出来ということより彼の生きてきた執念の総決算という感じだった。
 そして今年、90歳になっても、共産主義時代を生きた前衛芸術家を描く新作を完成させたばかりだった。

 一方、ポーランドと言う国は歴史的にも日本との関係は良好で、今でも語られる杉浦千畝のユダヤ人救出、シベリアにおけるポーランド孤児救出、モンテ・カシーノの激戦にてポーランド部隊と日系人部隊の共闘などから親日家が多い。
Photo
 芸術を愛するワイダも若き日に浮世絵などの日本美術に感銘を受け、そんなところからも親日家だった。87年に受賞した京都賞の賞金を基金に母国の古都クラクフに日本美術技術センター「マンガ」(→)を設立した。このセンターは日本の伝統工芸品や美術作品で中・東欧随一のコレクションを持っている。

 アンジェイ・ワイダの死は、世の定めとは言え日本にとっても悲しい出来事である。しかし彼もようやく安らかな時を迎えたのかも知れない。いずれにしてもご冥福を祈りたい。

(参考)<アンジェイ・ワイダ監督作品>

 世代 Pokolenie (1955年)
地下水道 Kanał (1957年)
灰とダイヤモンド Popioł i diament (1958年)
ロトナ Lotna (1959年)
夜の終りに Niewinni czarodzieje (1960年)
サムソン Samson (1961年
シベリアのマクベス夫人 Powiatowa lady Makbet (1962年)
Popioły (1965年)
Gate to Paradise (1968年)
すべて売り物 Wszystko na sprzedaż (1969年)
蝿取り紙 Polowanie na muchy (1969年)
戦いのあとの風景 Krajobraz po bitwie (1970年)
白樺の林 Brzezina (1970年)
婚礼 Wesele (1973年)
約束の土地 Ziemia obiecana (1975年)
大理石の男 Człowiek z marmuru (1977年)
麻酔なし Bez znieczulenia (1978年)
ヴィルコの娘たち Panny z Wilka (1979年)
ザ・コンダクター Dyrygent (1980年)
鉄の男 Człowiek z żelaza (1981年)
ダントン Danton (1983年)
ドイツの恋 Un amour en allemagne (1983年)
愛の記録 Kronika wypadków miłosnych (1986年)
悪霊 Les possédes (1988年)
コルチャック先生 Korczak (1990年)
鷲の指輪 Pierścionek z orłem w koronie (1992年)
ナスターシャ Nastasja (1994年)
聖週間 Wielki Tydzien (1995年)
Panna Nikt (1996年)
パン・タデウシュ物語 Pan Tadeusz (1999年)
Zemsta (2002年)
カティンの森 Katyń (2007年)
菖蒲 Tatarak (2009年)
ワレサ 連帯の男 Walesa. Czlowiek z Nadziei (2013年)

(アンジェイ・ワイダの人生)

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2015年10月31日 (土)

映画 時代劇回顧シリーズ(5) 中村錦之助「宮本武蔵」5作品   -私の映画史(19)-

時代劇映画の更なる新しい道・・・・・・文芸路線へ

 とにかく映画の全盛時代の1950年代を経て、1960年代となると映画そのものが次第に下降路線となりつつある時、その時代を反映しつつそこには新路線が登場したわけだが、その一つがリアリズム映像であり、更にもう一つの方向として単なる痛快娯楽路線から一歩進んで、文芸的な世界を模索する路線も誕生してきた。

東映映画 内田吐夢   監督
       中村錦之助 主演

          「宮本武蔵」            (1961年公開)
          「宮本武蔵 般若坂の決斗」 (1962年公開)
          「宮本武蔵 二刀流開眼」   (1963年公開)
          「宮本武蔵 一乗寺の決斗」 (1964年公開)
          「宮本武蔵 巌流島の決斗」 (1965年公開)

B
 吉川英治原作の「宮本武蔵」の映画化である。なんと5年かけての製作、当時とすればこの5年間は非常に長く感じられたものだった。そしてこの映画は、監督内田吐夢の一つのロマンの作品と言われている。過去の時代劇と違って、人間の姿・心を描こうとするところに文芸作品と言われる所以である。
 又、武蔵を演ずる中村錦之助の代表作とも言われるところは、彼のこの5年間の役者としての進歩の姿がこの一連の作品に見えてくるところだ。特に第一作での気合いの入れ方は当時驚かされたものだ。

Photo_3製作:大川博 
企画:辻野公晴、小川貴也、翁長孝雄 
原作:吉川英治 
脚本・監督:内田吐夢 
脚本:鈴木尚之、成沢昌成
撮影:坪井誠、吉田貞次 
照明:和多田弘、中山治雄
録音:野津裕男、渡部芳丈 
美術:鈴木孝俊 
音楽:伊福部昭、小杉太一郎 
編集:宮本信太郎 
助監督:山下耕作、富田義治、杉野清史、鳥居元宏、加藤晃、篠塚正秀、野波静雄、鎌田房夫、菅孝之、大串敬介 
記録:梅津泰子 
装置:上羽峯男、館清士、木津博 
装飾:宮川俊夫、佐藤彰 
美粧:林政信 
結髪:桜井文子 
衣裳:三上剛 
擬斗:足立伶二郎 
進行主任:植木良作、神先頌尚、片岡照七、福井良春
邦楽:中本敏生

 出演:
中村錦之助(宮本武蔵)
高倉健(佐々木小次郎)
片岡千恵蔵(長岡佐渡)
三国連太郎(宗彰沢庵)
月形龍之介(日観)
田村高広(柳生但馬守)
里見浩太郎(細川忠利)
木村功(本位田又八)
丘さとみ(朱実)
入江若葉(お通)
平幹二朗(吉岡伝七郎)
江原真二郎(吉岡清十郎)
岩崎加根子(吉野太夫)
薄田研二(柳生石舟斉)
浪花千栄子(お杉)
木暮実千代(お甲)
河原崎長一郎(林吉次郎)

 この作品は、内田吐夢監督の拘りが見事に描かれた。勿論吉川英治原作の意志は尊重されているが、内田吐夢自身の人間像に迫るところに魅力がある。 又キャストを見ても当時の東映の総力を挙げている。

 第一作「宮本武蔵」 (1961年公開)
 関ヶ原の戦いに敗れ、敗軍の兵として追われる錦之助の過去の美剣士錦之助像を殴り捨てた武蔵(たけぞう)の演技。それをみる三國連太郎の沢庵坊主の若き者への人間像への導きにポイントがあって、内田吐夢のこの映画への目的が明確に出る。

 第二作「宮本武蔵 般若坂の決斗」 (1962年公開)
 名門吉岡道場にて門弟を打ちのめして遺恨を残す。奈良の宝蔵院にての僧兵を一撃で即死させる。前半を静かに描いて、クライマックスの般若坂の決斗で爆発的にリアリスティックに闘いを描く。浪人の首が飛ぶところは、話題になった映画「用心棒」の壮絶さの上を行く。このあたりが内田吐夢の手法が見事に観客を虜にする。しかしこの二部でも”闘いの結果の殺人”と”僧の世界の真髄”に疑問を持つ武蔵。
B
 
 第三作「宮本武蔵 二刀流開眼」
(1963年公開)
 柳生石舟斉へと向かうも高弟との闘いとなり、二刀流が自然に生まれる。吉岡清十郎との洛北蓮台寺野に於ける決闘に勝利。名門の当主のプライドを守り通そうとする清十郎の悲壮感は壮絶に描かれる。勝利無くして武士の姿なしと剣の道に疑問を持ちながらも進む武蔵。

Photo_7 第四作「宮本武蔵 一乗寺の決斗」 (1964年公開)
 吉岡一門の怨念は深く、平幹二朗演ずる吉岡伝七郎との三十三間堂の対決、そして73対1の一乗寺下り松の決死の闘いを描く。主題の一乗寺下り松の闘いでは、敵の総大将には子供が立てられ、武蔵はそれを殺す。その罪を武蔵は背負って生きる事になる苦痛を描く。又闘いのシーンは内田吐夢のリアリズムが展開する。とにかく武蔵は一本の田圃のあぜ道を走って走って走りまくり、追っ手と一対一の状態をつくり戦う。昔からの東映の踊りに近い大勢に囲まれてのチャンバラとは違う。勝負は一対一でないと勝てない姿が真実感を増す。しかもこのシーンだけがモノクロとなるとこに拘りが見えた。

 第五作「宮本武蔵 巌流島の決斗」 (1965年公開)
 佐々木小次郎との巌流島における宿命の決闘。常に勝利の為の方策、そしてその後の追っ手から逃走の道まで考えて闘いに望む武蔵の計算高いところを描きつつも、相手を殺したことへの勝者としての喜びは無い。ここでは武蔵の殺人への罪を実は内田吐夢は強調する。「戦う」ことから生まれる悲劇、剣の道から人間に迫ろうとした武蔵には・・・・残るは「空虚」のみ。

      ”この空虚・・・・所詮、剣は武器・・・・・・”

 この映画の制作中の5年間には又映画界には変化が起きていた。「時代劇の衰退」と「任侠映画の劉生」である。そんな時の時代劇の生き方への一つの回答であった作品でもあった。

(視聴)

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2015年10月 8日 (木)

中西 繁「哀愁のパリ」油彩画展からのお話

今回は、パリの美しさと哀愁と・・・・・・そして人間性

 ここ一週間において、楽しく嬉しいイベントがありました。私がかってこのブログでも取り上げさせていただいた中西繁画伯の作品展を鑑賞できました。
 (中西繁先生については、ちょっと量がありますが、当ブログ・カテゴリー”中西繁http://osnogfloyd.cocolog-nifty.com/blog/cat44430537/index.html”を、通して見て頂くと、私が何故期待しているかがご理解いただけると思います)

Photo

         (中西繁画「雨のモンパルナス」F8~油彩画展案内から)

 実は今回の重大なイベントは、油彩画展鑑賞に加えての先生との”絵画は勿論ですが、それを超えたお話”が出来たことです。
 私は先生には以前にも書いた事があるのですが、三つのポイントで大きな関心を持っているのです。それは①「絵画の技術と美」、②「哀愁の心」、③「人間的・社会的問題意識」と言って良いでしょうか?。

Photo_2
        (今回の「油彩画展」~中西繁先生の公開写真)

 そして今回の油彩画展は「哀愁のパリ」とテーマされてありますから、①および②が中心の世界ですが、実は私どもの為に数時間も用意して頂いたことになった”楽しい会合”によって、先生の魅力ポイントに④を追加したいと思っています。
  その追加ポイントは「魅力的な人間性」といったところでしょうか。この魅力は、感ずる者によって左右されるものであると思いますが、私にとっては更なる大きな魅力が感じ取れたと言うことで、今回のイベントの大きさを感じているところです。それはこの油彩画展に展示された作品に、あのパリのセーヌ川にかかる「ポン・デ・ザール」と「ボン・ヌフ」を描いた2作があったのですが(写真を撮るのは控えましたので、ここで紹介できないのですが)、そのセーヌ川の色の輝きです。これはなんと言っても観た者でなければ解らないところですが、まさにこれが中西繁画伯の人間性の輝きと思ったところです。絵画というのは、こうしたその人の姿が現れるところが素晴らしいですね。

 さて、この点については、いずれもう少し究めたいと思っていますが、今日はこんなイベントがあって、私にはこんなプラス・ポイントが加わったと言うことを記させて頂いて、いずれここに詳しく紹介したいと思っているところです。

(参考映像) 中西繁展「廃墟と再生」

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2015年3月12日 (木)

男のロマンのエッセイ集:中西繁著「À Paris~ゴッホの部屋の日々」(その2)~映画「男と女」

       <My Photo Album 瞬光残像 = フランス編>

中西繁先生の「パリ」に刺激されて・・・・私も懐かしのもう何年か前の「パリ・セーヌの夜」の撮影モノクロ・フィルムを引っ張り出しての一枚です(↓)。この頃は”夜のパリ”が好きでした。

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サンジュ橋pont au change 越しに観るコンシェルジュリーLa Conciergerie (遠くにはエッフェル塔のライトが見える)

          *    *    *    *
さて、本題↓

 男のロマン貫く・・・・・・中西繁

2

 フランスとは・・・・まさにオールラウンドに芸術の国と、私自身の人生の中では位置付いている。中西繁の絵画の世界は当然として、私の好んだ音楽や映画そして写真の世界でも・・・なかなかこの国の右に出るのは簡単には見つからない。
 さて、中西繁のエッセイ集「ゴッホの部屋の日々」感想の続きである。

Photoモンマルトルからモンパルナスへ~モンパルナスの朝

 中西繁は2006年までの2年のパリ生活後は、冬期にパリに2,3ケ月滞在する生活のようだ。これはまさしく正解だと思う。
(←中西繁画「雨上がりのモンパルナス大通り」)
 私はパリは冬期が好きだ。街も葉を落とした街路樹と建物が美しい。ただ私と違うのは、彼は朝早い、そしてそこにフランスらしい姿を感じている。私は夜派、夜のパリの姿に酔った。

ドーヴィル・トローヴイル   ( 映画「男と女」

41ck0svwlrl1_2 この街はあのノルマンディー地方の海を望む港町。私はフランス映画「男と女Un homme et une femme」 (1966年)が、このドーヴィルを舞台としていることは、彼のこのエッセイで初めて知った。とにかくこの映画を見た頃は、フランスにおける都市の位置関係など理解していなかった為だ。
 いつぞやも中西繁はこの映画「男と女」がお気に入りであったことは知っていたが・・・このエッセイ集でもこの映画の監督のクロード・ルルーシュの言葉”人生は2,3のパターンしかなく、人々はそれを繰り返し残酷なまでに同じ道を歩いて行く”と、そして彼の画集に記した”人生は無数のパターンの足跡として残る”を対比して・・・・”人は歳を重ねるほど、ますます過去を想いながら生きてゆくものなのだ”と結ぶ。このあたりが中西繁節。

21 さてこの「男と女」の映画に話しを戻すが、これからは私のこの映画感想。話の筋はそれほど・・・・・?で、つまり公開当時のキャッチコピーを見ればその通り→”たちきれぬ過去の想いに濡れながら、愛を求める永遠のさすらい ・・・・・・その姿は男と女”。

 この映画の主題歌はフランシス・レイの”男と女”、これが又映画以上に世界を魅了した。又映像を音楽が作り上げるという技も見えた。
22 又「映像」というそのものの意味にも迫った。アングル、クローズ・アップ、動き、光の陰影、明るさ暗さ、そしてなんと言っても画面のお膳立てとしての”雨”。このドーヴィルという地は、日本で言えば冬期は暗い日本海に面した地と似ているのだろう。その暗さも重要な役割を果たす。そんな背景下の映像の素晴らしさも教えてくれた映画である。

 そして更にこの映画、カラーとモノクロの対比が素晴らしい。場面によって使い分けしているのだ。両者は互いに否定するものでなく、それぞれが優れたものである事を教えた。ただ私自身はこの映画ではモノクロに軍配を挙げている。

・・・・と、中西繁のロマン・エッセイ集はいくらでも私の書くことが脱線する要素を持っていて、私には楽しい一冊なのである。

(参考)

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