絵画

2018年5月26日 (土)

中西繁傑作作品「雨の舗道」

[My Photo Album (瞬光残像)]  Spring/2018

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(我が家の庭から・・・・薔薇の季節)

[絵画の話題]   中西繁作品

縦位置構図と横位置構図の意味するところは・・・・

  中西繁画伯の数多い傑作の中の一枚と私は思っている「雨の舗道」(F130号大作)という作品がある。これは画伯が2004年から2年間フランスへ留学した(モンマルトルの100年以上前にゴッホの住んだ部屋にアトリエを構えた)時に、その構想と作製に関係した作品と推測しているが、2007年の日展に出品されたものだ。
 サクレクール大聖堂のあるモンマルトルの丘、その北側の周回する並木道コーランクール通りの一枚だ。

□ 雨の舗道 (F130号) 2007年作品

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 この作品は130号という大作ですが、夕方であろうか、雨の降る葉も落ちた季節のコーランクール通りの舗道を一人の婦人が笠をさして歩いて行く。着ているコートからもう寒い季節を迎えての冷たい雨だろう。手には赤い袋を提げている(これが又一つのポイントになってますね)。私は個人的な勝手な決めつけで、これは決して若い婦人ではないと思っている。まだ明るさの残った空が濡れた舗道に反射し、そこに移る婦人の影は華々しいフランスの通りにしては、後ろ姿であるだけに何故か陰影のある哀感を感ずるところだ。左の人間謳歌の時代を反映する若者のビキニ姿の看板。これとの対比が更にその印象を強めていると思っている。
 私はこの葉の落ちた木の枝によって描かれるパリ風景が好きであって、この作品のように周りの建物などが更に味わい深く感じられる。路面の車のライトの反射など気分を盛り上げている。又、雨に濡れたベンチ、舗道には孤独な鳩が一羽歩んでいるのも印象的。心に感じさせる叙情詩的な素晴らしい作品である。

 とにかく中西繁先生のフランス・パリに纏わる一連の作品は、このように素晴らしいのであるが、ここに「雨の舗道」を取りあげたのには、ちょっと理由がある。

 次の作品を見て欲しい。

□ 雨の舗道 (3.5m× 2.5m 大作)  2018年作品

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 さてこの上の作品は、中西繁画伯による今年製作されいるなんと3.5メートル(6.5X2.5mと記されていたがおそらく 3.5x2.5mだと思いますが)を越える大作のようでである。それは、先日先生のブログ「中西繁アート・トーク」でほぼ完成したと書かれていたのを見ただけであるので確実のところは言えないのですが・・・。

Photo 今作はなんと横位置の大作であった。少しづつ2007年作と比べると描いたところに異なる場所もある。まず気になるのは婦人の正面奥の街路樹が大きく描かれていること、左のベンチが無くなっていること、この舗道の車道寄りの街路樹の幹の形が異なっていること、画面が縦構図から横になり左右に広くなったため、車道にはむこうに向かう車が描かれた。広い舗道もやや昇り坂に見えたモノが、横に広く構図をとって、やや平らになった。そしてこれは意味があるのかどうか、婦人の持っているバッグもしくは下げ袋の赤がやや派手さが押さえられた。やはり舗道の手前には孤独な鳩がいる。


 そこで私が最も問題としたいのは、縦位置から横位置に変わった構図である。これはおそらく3メートル以上の大きさの大作であるから、縦も2.5mあって、物理的に横にせざるを得なかったのかも知れないが・・・・・?。
 ・・・・と、思いつつも実は私は縦位置が好きであるため、ここに少々その変化を書きたかったのである。もともと人間がこうして見たときには、横位置の方が安定感があると言われている。しかしこの2007年の原作品の方は、縦位置の構図であって、それが又私は好きなのである。更に、縦構図では画面半分から下は舗道を描いているのであるが、これを広く取った意味は大いにあると思っているからである。その遠近感がたまらないのです。
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 まあ昔から右のような黄金図形(長方形)(縦横比1:1.618=この黄金長方形から右の図のように、最大の正方形を除くと、残った長方形がまた黄金長方形の比率になり、そこからまた最大の正方形を除くと、永遠に相似な図形ができていく)と言うのがあって、最も人間が安定して見れる構図はこの横位置長方形なんですね。そしてどのような比でも横位置が安定感がある(この絵画は1:1.4か?)。
 しかし私は縦位置の不安定感に実は凄く惹かれるのです。まあこれは私個人の感覚ですからどうしようも無いのですが・・・・。しかしこの絵はやや暗さも一味あって、ならばこそ安定感にない縦位置であって欲しかったと思うのは偽らざる気持ちなのでした(しかし大きさから無理な話と思いますが・・・)。・・・しかし見方によっては、この大きさですから前に立った鑑賞者にとっては、この横位置の中に入っての臨場感は凄いと思います(「赤レンガ倉庫展」に向けたものでしょうか)、その為の横位置かも知れません。画伯は今回はそれを狙ったのかも・・・・とも推測されます。

そこでもう一枚(↓)。

□ 雨のコーランクール (F130号)  2007年

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 これは上の「雨の舗道」と対をなすコーランクールの一枚ですね。これも傾斜のある道路の広い舗道の一枚です。雨上がり直後のようです。舗道の描写が素晴らしく圧巻です。これも素晴らしい作品ですね。しかし私の眼から見ると、「雨の舗道」とは全く印象が異なります。その決定的なところは、やはり舗道を歩く婦人が描かれていますが、この作品では、こちらに向かってくるところが印象を変えていると思ってます。こちらはやはり夕方と思いますが同じ暗さでも、見る印象は明るいのです。ここにも孤独の鳩が登場しますが、ここでは孤独と言うよりは、可愛く感じます(不思議ですね)。そして私はこの作品の場合はこの横位置が良いと思います。不安感の無い光景なのです。

 ・・・・と、縦位置横位置の構図というのは私にとっては大いにそれぞれ意味有りで楽しいのです。

<参考までに・・・>
W 中西繁先生の絵画では、実は縦位置はそう多くない。しかし右に見るように・・・・
「終着駅(アウシュビッツ・ポーランド)」(F100号)(→)という作品があるが縦位置である。
 あの忌まわしい第二次世界大戦の虐殺の代名詞だ。このビルケナウの収容所に入った線路と向こうにゲートの建物。これを描いた日本人画家は他に私は知らないが、これを描かなければならなかった中西繁画伯の心を知らなければならないだろう。この大部分を締める線路と遠くのゲートであった建物とのバランスのこの構図が、縦位置での印象を倍増している。
 戦争は許せない。(現在ポーランドでは、ここは「負の遺産」として公開している。数年前に私も訪れてみたが、あえて現在は暗い印象の無い景色となっている。しかし絵には心がある。見るとおり、この絵には明るさは無い)

中西先生へ・・・・先生の肖像および絵画を無断で掲載させて頂いて申し訳ありません。問題がありましたらご連絡ください。対応いたします。

(参考)

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2018年3月 5日 (月)

抵抗の巨匠・アンジェイ・ワイダの遺作映画「残像」

画家(芸術家)の生きる道は?、芸術の表現の自由は?

<ポーランド映画>
アンジェイ・ワイダAndrzej Wajda監督 「Powidoki (残像)」
DVD / ALBATROS / JPN / ALBSD2157 / 2017

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 ポーランドの映画「灰とダイヤモンド」で知られる抵抗の巨匠アンジェイ・ワイダ監督(1926-2016)の遺作である。第2次大戦後のソビエト連邦下におかれたポーランドで社会主義政権による圧政に不屈の精神で立ち向かった実在の前衛画家ブワディスワフ・ストゥシェミンスキ(1893-1952)の生涯を描いたドラマ。日本では昨年6月公開映画だが、DVDで私の愛蔵盤としたいために昨年末にリリースされたDVDにより鑑賞したもの。

2008_04_22__andrzej_wajda_2監督 アンジェイ・ワイダ (→)
製作 ミハウ・クフィェチンスキ
 
脚本 アンジェイ・ワイダ、アンジェイ・ムラルチク
撮影 パヴェウ・エデルマン(映画「戦場のピアニスト」)
音楽 アンジェイ・パヌフニフ
美術 インガ・パラチ

 (キャスト)
ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ : ボグスワフ・リンダ
ハンナ(学生) : ゾフィア・ビフラチュ 
ニカ・ストゥシェミンスカ(娘)  : ブロニスワバ・ザマホフスカ
ユリアン・プシボシ(詩人) : クシシュトフ・ビチェンスキー
ヴウォジミェシュ・ソコルスキ(文化大臣) : シモン・ボブロフスキ
ロマン(学生): トマシュ・ヴウォソク

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 とにかく90歳になろうとしていたアンジェイ・ワイダの作品である。彼はこれを最後の作品と思って制作したのだろうか?、あの名作「灰とダイヤモンド」(1958年ポーランド映画)をオーバーラップしてしまう同時代の「己の芸術の魂には妥協が許しがたいという生き様の芸術家」を描くことにより、自らの人生をも描ききったのであろうか。

 映画は、自然の緑の美しい草原にて「絵画と芸術」を語るところから始まる。あのナチスドイツに支配され、アウシュヴィッツ収容所にみるがごとき忌まわしいホロコーストの時代をようやくのこと克服してきたポーランドの平和な姿が描かれているのだ。
 しかし彫刻家の妻カタジナ・コブロと共にポーランド前衛芸術の基盤を築いた主人公の画家ストゥシェミンスキは、アトリエにての描こうとしているキャンバスは、真っ赤な色に変わった(この映画の不吉な「赤」からのスタートは上手いですね)。これはソ連共産主義社会のスターリン像の赤い旗が窓を被ったからであった。
 これは戦後のソ連の属国化したポーランドに於いて、スターリン全体主義思想に支配された中で、自由な表現活動を追求しようとする芸術家の抵抗の孤独な闘いを描いた作品である。欧米の自由主義思想を敵視し、それを根絶しようとする国家主義による圧政の恐ろしさは、主人公の芸術家人生が追い詰められていく姿、又生きるために自己を否定してゆかざるを得ない一般庶民の姿、これらを観るものに現実の厳しさをもって迫ってくる。

640b<アンジェイ・ワイダのテーマは?>
 一方、この映画に出てくるセリフには多くの考えさせられる言葉が・・・・
▶「”わたし(芸術)”は”イデオロギー(社会に支配的集団によって提示される観念=ここでは国家)”より優先する」
▶「残像とは、人がものを見た後の網膜に残されるイメージと色だ」
▶「人は認識したものしか見ていない」
・・・・などなど。
 単に芸術にまつわる含蓄のある言葉と捉えて良いものか、多分単純にそうではないと思うのである。
 共産主義の「赤」、娘のまとうコートの「赤」、妻の作品にみる「赤」など、おそらくここでは「赤」は一つのテーマにしているのだと思う。そして愛妻の美しい瞳の「青」と対比している。そしてこの「青」は「残像」として認識される「赤」の補色(緑みの青=シアン)であるからだ。そしてその補色関係にある両者の色にワイダは意味づけを込めているだろう事を知るべきだ。補色により色は輝くのである。このあたりは単純では無い。
 
800pxdmitri_shostakovich_2<スターリンの圧政>
 この映画を観るに付け、一方私の頭をよぎるのは、ソ連の作曲家ショスタコーヴィチ(→)の生き様である。やはりスターリン時代に生き抜いた彼の人生も、属国となったポーランドのみならず本国に於いても当然その圧政との闘いであった。「私の交響曲の大多数は墓碑である」(ソロモン・ヴォルコフ編「ショスタコーヴィチの証言」)と言わしめた彼の作品。避難と呪詛を浴び、恐怖にとらわれながらも、音楽だけが真実を語れると信じて生きようとしたショスタコーヴィチ。ソ連の芸術家の抵抗と絶望的なまでに困難な状況の過酷さは、ポーランドにおいてもこの前衛画家ストゥシェミンスキにみることが出来る。

<この映画の流れ>
 とにかく政府当局の迫害は更にエスカレートし、この画家は社会主義リアリズムを求める党規則に反する独自の芸術の道を進んだ為、名声も尊厳も踏みにじられ、教授職を解かれ身分保障も剥奪され、更に作品をも破棄され、食料配給も受けられないばかりか画材すらも入手困難に追われる。
 病気の身となり、死が迫ってきた彼は、失った妻の為に最後にすることがあると、妻の墓地に敢えて白い花を赤の対立する補色の「青い花」に染めて捧げる。困窮の果てに彼は動くことすら容易でない身で職を求め、裸体のマネキンが並ぶショウウインドーの中で倒れ込み、悲惨な死を遂げる。
 しかし・・・・ここには救いはないのか?、抑圧によるこんな困窮の生活の中で母を喪い、尊敬する父をも喪った幼き娘ニカ(1936-2001)(↓)の姿にみえるたくましい生き様が私には印象深く救いでもある。(参考:実際には、彼女は後に精神科医となり、回想録『芸術・愛情・憎悪――カタジナ・コブロ(母)とヴワディスワフ・ストゥシェミンスキについて』を遺したとのこと)

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★ 監督アンジェイ・ワイダは・・・・
 一般に言われるとおり「レジスタンス」の人と言って良いだろう。彼の90歳の人生の中で、彼が求めた「祖国への愛」「自由」は、”ドイツ・ナチの残虐性に対する抵抗”でもあったのは当然だが、むしろ更なる国家全体主義による人民を抑えつける圧制、特にスターリンに代表される国家の名の下に行われる独裁政治による粛正と圧政、そして残虐行為、これらに対する抵抗が人生の全てであったと思われる。何故なら彼は亡命して生きる道もあったにも関わらず、一時は所在・生死すら解らない状態で(事実は解らないが、一時投獄されているという噂もあった)自国ポーランドにて闘い、ようやくにして1989年以降の解放のポーランドを迎えたのであった。
 既に哀しき時代に生きた彼も亡くなって今年で2年になろうとしているが、過去ばかりで無く現在においても、この作品にみる共産主義国の国家的統制社会のみでなく、如何なる国に於いても何処に於いても国家主義・全体主義の名の下に起こりうる悲劇を我々に教えているように思う。

一人の人間がどのように国家に抵抗するのか。
表現の自由を得るために、どれだけの代償を払わねばならないのか。
全体主義の中、個人はどのような選択を迫られるのか。
これらの問題は過去のことと思われていましたが、
今、ふたたびゆっくりと私たちを苦しめ始めています。
・・・・これらにどのような答えを出すべきか、私たちは既に知っているのです。
このことを忘れてはなりません。
                      (アンジェイ・ワイダ 2016年初夏)

(参考映像)

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2015年10月 8日 (木)

中西 繁「哀愁のパリ」油彩画展からのお話

今回は、パリの美しさと哀愁と・・・・・・そして人間性

 ここ一週間において、楽しく嬉しいイベントがありました。私がかってこのブログでも取り上げさせていただいた中西繁画伯の作品展を鑑賞できました。
 (中西繁先生については、ちょっと量がありますが、当ブログ・カテゴリー”中西繁http://osnogfloyd.cocolog-nifty.com/blog/cat44430537/index.html”を、通して見て頂くと、私が何故期待しているかがご理解いただけると思います)

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         (中西繁画「雨のモンパルナス」F8~油彩画展案内から)

 実は今回の重大なイベントは、油彩画展鑑賞に加えての先生との”絵画は勿論ですが、それを超えたお話”が出来たことです。
 私は先生には以前にも書いた事があるのですが、三つのポイントで大きな関心を持っているのです。それは①「絵画の技術と美」、②「哀愁の心」、③「人間的・社会的問題意識」と言って良いでしょうか?。

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        (今回の「油彩画展」~中西繁先生の公開写真)

 そして今回の油彩画展は「哀愁のパリ」とテーマされてありますから、①および②が中心の世界ですが、実は私どもの為に数時間も用意して頂いたことになった”楽しい会合”によって、先生の魅力ポイントに④を追加したいと思っています。
  その追加ポイントは「魅力的な人間性」といったところでしょうか。この魅力は、感ずる者によって左右されるものであると思いますが、私にとっては更なる大きな魅力が感じ取れたと言うことで、今回のイベントの大きさを感じているところです。それはこの油彩画展に展示された作品に、あのパリのセーヌ川にかかる「ポン・デ・ザール」と「ボン・ヌフ」を描いた2作があったのですが(写真を撮るのは控えましたので、ここで紹介できないのですが)、そのセーヌ川の色の輝きです。これはなんと言っても観た者でなければ解らないところですが、まさにこれが中西繁画伯の人間性の輝きと思ったところです。絵画というのは、こうしたその人の姿が現れるところが素晴らしいですね。

 さて、この点については、いずれもう少し究めたいと思っていますが、今日はこんなイベントがあって、私にはこんなプラス・ポイントが加わったと言うことを記させて頂いて、いずれここに詳しく紹介したいと思っているところです。

(参考映像) 中西繁展「廃墟と再生」

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2015年3月12日 (木)

男のロマンのエッセイ集:中西繁著「À Paris~ゴッホの部屋の日々」(その2)~映画「男と女」

       <My Photo Album 瞬光残像 = フランス編>

中西繁先生の「パリ」に刺激されて・・・・私も懐かしのもう何年か前の「パリ・セーヌの夜」の撮影モノクロ・フィルムを引っ張り出しての一枚です(↓)。この頃は”夜のパリ”が好きでした。

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サンジュ橋pont au change 越しに観るコンシェルジュリーLa Conciergerie (遠くにはエッフェル塔のライトが見える)

          *    *    *    *
さて、本題↓

 男のロマン貫く・・・・・・中西繁

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 フランスとは・・・・まさにオールラウンドに芸術の国と、私自身の人生の中では位置付いている。中西繁の絵画の世界は当然として、私の好んだ音楽や映画そして写真の世界でも・・・なかなかこの国の右に出るのは簡単には見つからない。
 さて、中西繁のエッセイ集「ゴッホの部屋の日々」感想の続きである。

Photoモンマルトルからモンパルナスへ~モンパルナスの朝

 中西繁は2006年までの2年のパリ生活後は、冬期にパリに2,3ケ月滞在する生活のようだ。これはまさしく正解だと思う。
(←中西繁画「雨上がりのモンパルナス大通り」)
 私はパリは冬期が好きだ。街も葉を落とした街路樹と建物が美しい。ただ私と違うのは、彼は朝早い、そしてそこにフランスらしい姿を感じている。私は夜派、夜のパリの姿に酔った。

ドーヴィル・トローヴイル   ( 映画「男と女」

41ck0svwlrl1_2 この街はあのノルマンディー地方の海を望む港町。私はフランス映画「男と女Un homme et une femme」 (1966年)が、このドーヴィルを舞台としていることは、彼のこのエッセイで初めて知った。とにかくこの映画を見た頃は、フランスにおける都市の位置関係など理解していなかった為だ。
 いつぞやも中西繁はこの映画「男と女」がお気に入りであったことは知っていたが・・・このエッセイ集でもこの映画の監督のクロード・ルルーシュの言葉”人生は2,3のパターンしかなく、人々はそれを繰り返し残酷なまでに同じ道を歩いて行く”と、そして彼の画集に記した”人生は無数のパターンの足跡として残る”を対比して・・・・”人は歳を重ねるほど、ますます過去を想いながら生きてゆくものなのだ”と結ぶ。このあたりが中西繁節。

21 さてこの「男と女」の映画に話しを戻すが、これからは私のこの映画感想。話の筋はそれほど・・・・・?で、つまり公開当時のキャッチコピーを見ればその通り→”たちきれぬ過去の想いに濡れながら、愛を求める永遠のさすらい ・・・・・・その姿は男と女”。

 この映画の主題歌はフランシス・レイの”男と女”、これが又映画以上に世界を魅了した。又映像を音楽が作り上げるという技も見えた。
22 又「映像」というそのものの意味にも迫った。アングル、クローズ・アップ、動き、光の陰影、明るさ暗さ、そしてなんと言っても画面のお膳立てとしての”雨”。このドーヴィルという地は、日本で言えば冬期は暗い日本海に面した地と似ているのだろう。その暗さも重要な役割を果たす。そんな背景下の映像の素晴らしさも教えてくれた映画である。

 そして更にこの映画、カラーとモノクロの対比が素晴らしい。場面によって使い分けしているのだ。両者は互いに否定するものでなく、それぞれが優れたものである事を教えた。ただ私自身はこの映画ではモノクロに軍配を挙げている。

・・・・と、中西繁のロマン・エッセイ集はいくらでも私の書くことが脱線する要素を持っていて、私には楽しい一冊なのである。

(参考)

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2015年3月 6日 (金)

男のロマンのエッセイ集:中西繁著「À Paris~ゴッホの部屋の日々」

常に「男のロマン」を感ずる世界を歩んでいる男!

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(序文) ある事情で、私にプレゼントして頂いた”我が絵画の師”(これは私が勝手に決めていることでして誤解のないように。実はお会いしたこともないのです)=中西繁先生のエッセイ集「À Paris~ゴッホの部屋の日々」の話である。

Profile_pic 既に「中西繁」(大変失礼ですが、このような話を書くに当たっては、敬称はあえて控えさせて頂いています。これは現在ご活躍中ではありますが、既に私が評価する中に於いて、絵画界における普遍的な意味を持つ人であるからです)については、過去にこのブログで私が何故彼を評価するのかは書いてきましたので、ここでは省略するが、絵画を愛する一人として、私は彼に注目せざるを得ないのです。

(参考)
http://osnogfloyd.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-d0df.html
                ↓
http://osnogfloyd.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-56e4.html

Photo まずはこのエッセイ集の冒頭は、左のごとくである。もうここで”人と人との出会い”について語っている。その出会いを自己にいかに生かせて行くかのロマンが見えてくる。
 中西繁を知る人は誰でも知っているのは、かって彼はパリのゴッホの部屋でのエネルギッシュな活動(約2年間)の話だ。
 しかし私は実は彼がもっと若かった時の話と思っていたのだが、この著書によって、それはなんと2004年と言うことで、既に60歳に近いときの話であることを知った。
 もともとフランスと言うかパリと言うか、あの地は画家と称する者の登竜門の地でもある。従って若き志の地でもあると言って良いだろう。しかし彼の場合は、なんとこの時は、私からみれば既に自分の世界は歴然と構築されたと言って良い時に当たっている。と、言うことは・・・・何故なのだろうか?。

 しかもゴッホの住んだ部屋にて絵画の創作活動をするということ。彼の絵画を志すきっかけとなったのはゴッホ作品であっということ。日本での活動を中断して、還暦近い男がそこに向かったのは?、そしてその決意のよって湧いてくるところは?・・・・・。

 ただ単にパリ(フランスといった方が良いのか?)という都市の魅力だけでなく、絵画の技法を極めるということだけでもなく(エコール・デ・ボザール美術学校に属したところは聞き及んでいるが)、まだまだ人としての歩む道の奥深さを求めたのであろうか?。

ここで中西繁はフランス各地の印象と思いを綴っている・・・・・・

Photoサクレ・クール大聖堂
 この中では、教会の聖堂内のドーム天井のキリストのモザイク画。そのキリストの瞳が輝くという。それはたった4つの席に於いてのみ見れるのだと・・・その観察力、その構造的分析・・・私にとって、中西繁の工学系の学問がキラリと光った。

LA QUATORZE JUILLET = フランス革命記念日
 革命の歴史の上に築かれた民主主義のフランス社会。その価値観を知っているのは彼らの特権であろう。ここには中西繁は冒頭に民衆運動の力を語った。
 この話で、私はふとその価値観はけっしてフランス人だけのものでないことを知っている。私のブログの題「月の裏側の世界」というのは、「The Dark Side of The Moon」。言わずと知れた英国プログレッシブ・ロック・グループのピンク・フロイドの1973年の作品邦題「狂気」をイメージしている。この作品のコンセプトは、このグループのベーシストのロジャー・ウォーターズによるもの。そして彼は2005年にフランス革命を描いたクラシック・オペラ作品「サ・イラCa Ira 希望あれ」を完成させた(参照: http://osnogfloyd.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-a107.html 奇しくも中西繁がフランス滞在中)。このようにフランス革命とは・・・・けっしてフランスのみのものでなくなっている。

ル・ジャルダン・コロニアル
 植民地支配の上に築かれたフランス国家。その暗部をこの廃墟と化している公園をみるに中西繁は思いを馳せる。(ここは私は知らない)

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 この聖堂の美しさを語っているが・・・彼はこれを描いた。あれっ!私はその作品を観ていないと思う、観たい。そして彼はモネの大聖堂の連作、睡蓮の連作へと・・・・・心を繋ぐ。(私はここへは数年前に訪れた。この大聖堂には”美”を感ずる余裕がなく、圧倒的”大きな力”を感じたのだが・・・・右は私が訪れた際の1ショット写真)
(追記)2015.3.10 中西繁画「夜のカテドラル(F12)」を観たのを思い出した。素晴らしい色彩。偶然にこの写真と見ている位置は同じ。

そして
 モン・サン・ミッシェル
 ドーヴィル、トロヴィール
 モレ・シュル・ロワン
 ブルターニュ
 アルル
 ブルージュ

  ・・・・などなど、ゴッホの足跡も訪ねつつこのエッセイはまだまだ続く。

Photo_2 パリ・セーヌでは、私も好きなポン・デ・ザール(←このエッセイ集の挿入写真)、そこにみる手すりいっぱいの鍵。どうも私はこれは好きでないのだが、中西繁も”いいのか、悪いのか”と言葉を濁している。

 もう少しこのエッセイ集の感想を書きたいのだが・・・少し間を置きたい。よく読んでみたいからである。それもなんと、米国ニューヨーク、英国はロンドンそしてコッツウォルズ(私はロンドンを訪れたときに、無理矢理一日を使って訪れた。まさに紅葉(黄葉?)の時季であったが、好きなところ)など・・・・フランス以外にも、最後には及んでいる。

 ここを見てくださった方々は、今回はこの彼のエッセイ集を取り上げました。しかし彼に関しては、絵画「福島の作品」を描かざるを得なかったところなど、まだまだ知るべきところは多いのだが、そこにまではここでは言及していません。
 是非とも現在の絵画の世界で注目される男”中西繁”に迫ってみてください。

(参考) 画集「哀愁のパリⅡ」
http://webryalbum.biglobe.ne.jp/myalbum/
301548300984a45c5eb19aaf442ffab118c63f430/091719016936315721

(追記:2015.6.6)
  つい最近(2015.6)のニュースで、このパリのポン・デ・ザールの手すりが、鍵の重さで壊れたと言うことがあったんですね。それによりこの多くの鍵は撤去することになったようです(もう既に撤去作業は行われているかも)。
 私はこの橋の写真を、もうお亡くなりになられた尊敬する大学の教授の撮られたものを昔拝見して、一度はこの橋に行きたいものと思っており、数年前に訪れましたが、既に鍵が最近ほどではないですが、多く取り付けられていました。何かそれは一つの味を壊しているように感じていました。撤去はそれで良かったと思っています

                *    *    *

     <My Photo Album 瞬光残像 = 南イタリア編> 

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クリスマスを迎えるアルベロベッロの夜  (photo 2014.12)

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2012年6月13日 (水)

絵画との対峙-私の愛する画家(5) 「五十畑勝吉」

まさに風景画のお手本

 私のように下手な横好きで、時に絵を描いていると、なるほどこう描けば良いのかと、お手本が欲しくなる。そんなところでは、既に取り上げた中西繁、安藤育宏、そしてここで取り上げる五十畑勝吉は私好みの私が勝手に決めている師(先生)である。とくに私の場合は描くとしたら風景画が多い為尚更のことである。
(供覧絵画はクリックにて拡大)

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五十畑勝吉「初秋相模川(相模原)」 油彩・キャンバス M10号
(別冊:一枚の繪~画集 風景を歩く 1986 一枚の繪(株)より )

 実は、五十畑勝吉は日本の名勝といえる場所に出向いて、美しい自然を描いているのではなく、日本のどこにでもある身近なところに対象を求めている。
 彼の著書「油彩と水彩で~風景画を描く」(主婦と生活社)にある彼の言葉にみるのは、”私が描く風景は人物を点描として入れたり、建物を主題に描くことはほとんどない。自然の風景であっても、人の営みを感じさせるような場所が好きだ。・・・・”と記している。
 確かに五十畑の絵には、そこに何か郷愁を感じたりするのはその為かも知れない。そしてそれは私だけでは無いであろう。


Photo_5五十畑勝吉「北信初冬(中野)」 油彩・キャンバスM10号
(別冊:一枚の繪~画集 画家80人による100点 1985 一枚の繪(株) より) 

 北信州での一枚。これに対しての彼のコメントは、”私は以前から近場での取材が多く、地方への取材はほとんど行きませんでした。・・・・・北信五岳の名山と紅葉の季節はこれまでの私はあまり描かなかった題材です。又遠方へ蛇行する山間の民家と平野にも、何かきびしい自然の美しさというものの魅力を感じ、描いてみました”と書いている。
 枯れ始めている雑草に囲まれた道は、こうした山間の地の代表的姿であり、そこに又人の営みがあっての姿がある。彼はこうした枯れた雑草の道を晩秋、早春などに前景に入れる手法をよくとっている。それが又、彼の絵の我々に語るところとなっていて、それが一つの魅力にもなっている。
 この絵に於いても、きびしい冬を迎える前の短い秋の風景であるが、紅葉の美しさというよりは、なにか郷愁を誘う世界を描いている。

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五十畑勝吉「河原の道(津久井小倉橋付近)」 油彩・キャンバス P8号
(別冊:一枚の繪~画集風景を歩く 1986 一枚の繪(株) より)

 ここに描く五十畑の秋は燃えるような紅葉ではない。木々は紅葉しているが、道と川の境には雑草が茂みそして枯れている。川に沿った道は遠くの橋に向かっている。美しい景勝地ではないが、人の営む世界の中からのなにかほっとする美しい一風景だ。これが五十畑の世界であると言って良い。
 描く技法も、非常に私にとってはあこがれのもの。特に枯れ枝の線の描き、雑草の描き、この独特の線の流れは非常に魅力的である。
 五十畑自身の書いたものを見ると・・・・・・・”私は美術学校で学んだことがない。キャンバスを張ったり、絵具の使い方や、下地の塗り方など、絵の好きな仲間に教えてもらったり、技法書を読んだりして学んだものである。それ以上のテクニックや絵画論なとアカデミックな考え方は持ち合わせていない。私の描き方は自分で考えたものである。” と語っている。

五十畑勝吉(いそはたかつよし) 略歴
 1933年 東京都文京区生まれ
  中央大学卒
 会社勤務の傍ら独学で油彩を学ぶ
 日展、一水会、大潮展、朔日展など入選
 一枚の繪でも活躍
 1985年 第14回現代洋画精鋭選抜展金賞
 無所属
 個展開催

C五十畑勝吉「残雪の道」 油彩・キャンバス F6号

 早春で、平地に雪をみる風景。日本ではごくありふれたどこにもある農道からみた風景。こうしたところのほうが絵ごころをさそうというのが五十畑勝吉である。
 枯れた雑草、もう緑も見え始めたときの積もっている雪と土とのコントラストの地肌。そして雑木林などの描きが魅力的。
(小生所蔵画)
 

(ここに登場する諸画伯及び五十畑勝吉画伯への敬称は失礼ですが普遍性を期して敢えて省略しました。ご了承ください。 又絵画の供覧は著作権法第32条に準じています。問題があればご連絡ください)

 
 

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2012年5月30日 (水)

絵画との対峙-私の愛する画家(4) 「三塩清巳」

受けた感動で描いた作品にカラーの独特の世界を築きあげた

 前回”色の詩人”として吉岡耕二に焦点を当てたが、「色」をテーマにしてみると、まさに”カラーリスト”と言われる三塩清巳を取り上げなければならない。私は彼の色彩”赤”を生かした作品に圧倒され、又作品の画面にみなぎるエネルギーに圧倒されたのである。

Photo
三塩清巳「赫(上高地焼岳)」 1994 油彩・キャンバス 130F
(「三塩清巳作品集」 1996 編集:井上哲邦 より)  

 この作品に対して、三塩清巳はこのように記している・・・・・”火山が好きである。北は北海道から九州までよく描きに行くところは火山が多い。 山の形もさることながら火山を見ていると、赫々と燃えさかるマグマ、勢いよく噴出する噴煙、そんなエネルギーの強さに感動する。 このエネルギーを自分のものとしたいという願いがある。”・・・と。

 確かに彼の作品は火山が多いが、その他風景は山が圧倒的に多い。しかもエネルギーの強さを感じてか、”赤”を駆使して描く。そして力強い。

Photo_3
三塩清巳「桜島晨明」 1991 油彩・キャンバス 80F
(「三塩清巳作品集」 1996 編集:井上哲邦 より)

 多くの画家に愛される”桜島”、三塩清巳に描かせると、やはり”赤”の山の姿が浮かび上がる。
 更にこの三塩独特の”赤”であるが、彼自身このように記している・・・・・”雪景色を描いても赤を使いたくなる私にとって火の山桜島は赤で描く以外色がない。赤に憑かれて久しいがまだ納得のゆく色が出ない。 火の山だから赤で描くのではなく、赤で描く方が自分の気持ちを表現し易いからである”・・・・と。

Photo_2
三塩清巳「上高地霞沢岳」 1993 油彩・キャンバス 130F
(「三塩清巳作品集」 1996 編集:井上哲邦 より)

 彼の愛した上高地。この上高地の霞沢岳を描いても赤がふんだんに使われる。
 ”私は赤の色をよく使うが、季節感とか、自然現象、ある岩者の固有色としてではなく自分の色として残雪の上高地霞沢岳の神々しさ、大きさ、美しさといったものを表現したかった”と彼は記している。
 赤でないものを赤で描く彼の絵画に対しての姿勢は、自分で感じたことをどう表現するかという一つの手法であると言える。そしてその赤が不自然でなくなってくるところが魅力である。

Photo_2三塩清巳「サーカスの人たち」 1980 油彩・キャンバス 100F
(「三塩清巳作品集」1996 編集:井上哲邦 より)

 三塩清巳の作品集をみると、馬、サーカス、ピエロを扱った作品が多い。(1960-80年)
 彼の子供の頃は馬と一緒に育ったという、その体験からくる馬に対する愛情と、そしてサーカスには、その中に人生の縮図を見ていたのであろうか。そのサーカスにはピエロの役割を重要視している。これに関係した一連の作品は、かなり三塩としての他に見ない独特の世界である。
 画風は森田茂に師事し大きな影響を受けていると思われるが、師森田からは、”色に独特のものを持ち・・・・、才能のある作家である。努力の作家である。・・・・”という言葉をもらっている。
 

Photo_3三塩清巳「犬吠灯台」 油彩・キャンバス 20F

 三塩は全国各地の魅力ある風景を殆ど絵にしている。そのうちの一枚であるが、犬吠埼の灯台を描いたもの。なんといっても海の色の深さの魅力と荒々しい躍動感ある様、岬の肌の描き込み、油彩としての長所を十二分に生かしての作品だ。この作品に於いても空の色をはじめ、色は心という心情で描いている。(私の所蔵作品)


三塩清己 みしおきよみKiyomi Mishio 略歴

1929年-佐賀県出身。
1949年 佐賀師範学校数学科卒
1952年 富永秀夫に油絵の指導を受ける
1954年 森田茂に師事。
1955年 日本大学工学部電気工学科卒
      東光展 初入選
      東京都内小学校に勤務
      東光会にて活躍。日展評議員、東光会理事長を務め、画壇の重鎮として活躍。
1974年 日展特選受賞
1978年 日展特選受賞
東光展文部大臣賞受賞、日展審査員3回、個展・グループ展多数開催。
確かな画力とセンスで高い支持を得る。

(三塩清巳画伯は、現在80歳を超えていますが、ご活躍中です。ここでは普遍性を期して失礼ですが敬称は省略いたしました。よろしくお願いします。 又絵画の供覧は、著作権法第32条に準じて行いました。何か問題がありましたらご連絡ください)

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2012年5月26日 (土)

絵画との対峙-私の愛する画家(3) 「吉岡耕二」

驚きの造形と色彩美学

 私の愛する画家として、現役バリバリということでは、既に”問題意識の画家:中西繁”を取り上げてきたが、ここではもう一人”吉岡耕二”に焦点を当てる。
 彼の描く絵画を語ろうとするには、私の言葉では適切なものがない。まずはその作品を鑑賞することが最も手っ取り早い。

Bluemosque2004
吉岡耕二「ブルーモスク Blue Mosque (トルコ)」 2004  oil on canvas  112.7×91.0㎝
(画集「YOSHIOKA 2003-2009」 2009  株式会社アートデイズ より)

 彼の作品を語るには、彼の画集に寄せられた言葉が適切だ。
 詩人・作家の辻井喬によると”はじめて吉岡耕二の作品に接した時、浮かんできたのは色彩の詩人、という言葉だった。線も構図も、色彩が歌い、踊り、そして何か哀し気に沈黙する・・・そうしたドラマを表現するためにあるのだと思った。しかし今、そうした魅力に引き込まれながらも私は、この作者がそのようにも光を自らの鼓動にし得たのはどのような必然、あるいは成り行き、または身体的な法則によってなのかと考えてしまう”・・・と。

 吉岡耕二は1943年生まれ。24歳で自由な色彩表現を求めてパリ国立美術学校に留学。1975年に日本人としては最年少の31歳で、サロン・ドートンヌの正会員に推挙されるという実力派。地中海を中心としてヨーロッパ、北アフリカ、カリブなどにある多くの国を訪れて描いてきている。
 私にとっての彼の作品の魅力は、キャンバスの中に大胆な構築される対象の姿と、色による心の表現であろうその鮮烈さには圧倒されるところにある。

Theeiffeltower2008
吉岡耕二「エッフェル塔 The Eiffel Tower (フランス)」 2008  oil on canvas   72.7×60.6㎝
(画集「YOSHOOKA 2003-2009」 2009  株式会社アートデイズ より)

 グラフィックデザイナーの早川良雄は、”吉岡耕二の絵の前に立つと、あゝこれこそが絵画のみに可能な表現なのだと思い知らされる。・・・・・ 対する者は、まずその美しい色彩の協奏に酔い、奔放な形象の解放に圧倒される。意表を衝く重層空間のなかに風景の記憶が映し込まれるが、それは抽象と具象のあわいを自由に往き来しながら独自の造形世界に再構築されていて、見事という他はない”・・・と、記している。

Cordoba2009
吉岡耕二「コルドバ Cordoba (スペイン)」 2009  oil on canvas   90.9×72.7㎝
(画集「YOSHIOKA 2003-2009」  2009  株式会社アートデイズ より)

 彼の作品は、圧倒的に地中海をとりまく国々の都市を描く作品が多い。そしてそのキャンバス内の描かれる対象の姿は、一見抽象に見え、又自由奔放でゆくままのごとくに描かれているようであるが、実は私の目からは相当な計算が成されていると思う。そこが又大きな魅力である。

Flowers2001_2 彼は、上のように風景画が主力と言って良い。それは彼の描こうとする世界観の対象であるからであろう。
 しかし、左のように”花”を描いた作品も多く見られる。

吉岡耕二「花 Flowers」 2001  oil on canvas  27.3×22.0㎝
(画集「YOSHIOKA 1999-2003」 2003  より)

 しかし絵画の世界は、絵画であるからこそと言う自己の表現としての奥深い世界が存在していると思う。それは表現技法や対象の選択においても安易に到達出来るような世界ではないであろうことも想像できる。観る我々は何を感ずるかは又その人の個性であり、歴史的産物でもあろう。
 特にそうしたことを考えさせるのが彼の絵画の世界の一面であるようにも思う。

Photo_2吉岡耕二「フィレンツェ」 F10号

 
これは、上のトルコ、フランス、スペインを描いた3作のような大作ではないが、私のかねてからの念願が叶っての偶然持つことが出来た彼の作品で、イタリアのフィレンツェを描いている。この街の象徴でもあるドゥオモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)を遠景に配して、彼独特の鮮烈な色彩でイタリアの歴史の街を描いたもの。まさにこの空の色は、吉岡にしてみると、フィレンツェの発するエネルギーを感ずるところなのであろうか。ルネツサンス運動の発祥の地として美しいこの街の人気は日本人にも高い。

吉岡耕二略歴

1943年 大阪に生まれる
1962年 大阪市 立工芸高校美術科卒業
1967年 渡仏、パリ国立美術学校に留学
1968年 サロン・ソシエテ ナショナル・デ・ボザール(於パリ近代美術館)出品
     サロン・アーティスト・フランセーズ(於グランパレ)受賞
     美術誌「アート」に紹介される
     スペイン・ポルトガル・モロッコ・アルジェリアに旅行
1970年 サロン・ドートンヌ初出品(翌年共 2 年連続)、会員候補に推挙される(75年正会員)
1971年 サロン・テールラテンに招待される
1972年 インド・ネパール旅行
1973年 パリに於ける各展の他、アンデパンダン展にも出展
1981年 14 年間の帯仏生活を終え帰国
1983年 チベット旅行
1987年 エジプト旅行 梅田阪急個展
1989年 モロッコ旅行
1992年 メキシコ旅行  渋谷西武個展
1993年 スペイン旅行  宝塚西武個展
1994年 カリブ旅行 梅田阪急個展
1996年 ギリシャ旅行
1998年東急Bunkamura Galleryにて個展
1999年CDジャケット20種(東芝EMI)
2000年 南フランス旅行 大丸百貨展個展 (東京)
2001年 イタリア旅行 大丸百貨店個展(大阪 神戸)
2002年 マルタ島・シチリア島旅行 みなとみらいギャラリー(神奈川)
2007年 5月、上海アートフェア出展

2008年 高島屋大阪個展2009年 BunKamuraギャラリー個展(東京)
2010年 ギャラリー尾形個展

(吉岡画伯をはじめ、ここで取り上げる諸画伯に対して、普遍性を期す意味で敬称は略しました。よろしくお願いします。又絵画の供覧は、著作権法第32条に準じています。問題があればご連絡ください)

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2012年5月20日 (日)

絵画との対峙-私の愛する画家(2) 「安藤育宏」

偶然の再会によって・・・・・

 好きな絵画との出会いは私の場合大抵偶然だ。もともと絵画は自分で描きたいほうであり、そんな為か特に名を馳せた人の絵画鑑賞というよりは、あゝこんな絵が描けたらなぁ~と思う絵に注目してしまう。前回紹介した”相原求一朗”もそうであったが、実は今回取り上げる”安藤育宏(やすひろ)”は、昭和50年代だったろうか、絵画の材料を求めてある画材店に足を運んだ際に、偶然壁に掛けてあったSM(thumb hole 227×158mm)の小さい絵によって私との関係が始まった。それが”安藤育宏”の「シャルトル早春」であった。(画像はクリックにて拡大します)

Photo安藤育宏「シャルトル早春」 (SM)

 これが、その絵画であるが、現在の私の部屋の壁にこのようにある。その出会いの時、比較的若い店主に値段を聞くと思いのほか高い。しかし私はこのキャンバス上の絵具の乗せ具合に惚れてしまった。多くの色を画面上で重ね合わせて行き、各色を生かしながら見た目に一つの色合いを感じさせる。
 私はあまり当時絵画を買いたいとは思っている方でなく、むしろ自分の趣味の作画に参考になるような絵を眺めていればよいほうであった。この時は、小さい絵であるし、値段的にも対応できるかなと思い、ふと欲しい気持ちが湧いて、価格交渉して結局手に入れた。店主もフランスのパリ郊外のシャルトルに行って来て思い出もあり、この絵に日本で出会ってイメージが気に入って仕入れてきたと言っていたものである。
 そしてキャンバス裏に記載されている作者の名前も見たのみで記憶に止めていなかった。それほど私は画家が誰ということには興味も無く、むしろ”この絵は自分にとって感動するかどうか”という事のみであったのである。

Photo  さて、その後20年ぐらいの月日も経って、軽井沢にふらっと出かけた際に、あるホテルで絵画の展示販売会をしていた。そこで見渡すと、F4号という小さめの絵であるが目にとまった。これもその色の乗せ具合と全体のイメージが気に入って衝動買いした。
安藤育宏「風車(オランダ・キンデンダルク)」 (F4号)
 
(こう話をしていると、私はよく絵画を買っているように聞こえるが、そうではなくてその気で買った3枚目がこれである)
 ところが、その作品が偶然にも安藤育宏作で、なんと20年前に買ったものと同一の人であったのである。まさに驚きの偶然であった。このために一気にこの作家に興味を抱くことになったのである。

安藤育宏(あんどうやすひろ) (1933-2010)
  1933年 宇都宮市生まれ
  1956-1960 一水会展に出品
  1962- 白日会展に出品(奨励賞他受賞、2004年中沢賞受賞)
  1976- 日本橋三越他にて個展32回
  フランス・イタリア等外遊15回
  白日会委員・審査委員
  日本美術家連盟会員
  千葉県松戸市に住み地域での絵画活動も盛んであった

  
Paris
安藤育宏「雨上がり・PARIS」 2004 油彩・キャンバス 97×130㎝ 
第80回白日会出展(中澤賞受賞)
(「日本の美術 画家が描いたヨーロッパ」 2004 美術年鑑社 より )

 私が惹きつけられる魅力は、キャンバス上の色彩の表現にある。多彩な色の純度が高く、それをキャンバス上で重ねていく。そして作り上げる色彩は深みとマチエールの美しさが何とも言えない魅力だ。

2

安藤育宏「レストランのある通り-パリ・モンマルトル」 1983 油彩・キャンバス F15号
  (私の所蔵品 ↑)

 これは、なんとか手に入れられた作品。タイトルどおり、モンマルトルの通りに面した味のある建物のレストランを描いている。日本人にとってはパリの一つの魅力でもある歴史ある美しい建物の並ぶ通りの一風景であるが、その情景を非常によく感じ取れる。彼は決してたゞ写実的に描くのでなく、印象を表現する色彩の妙が私にとって魅力なのだ。
 現在は、生前彼の住んでいた千葉県松戸市関係に、画伯としての活動によりその流れを受けた人々が絵画を愛した活動を展開している。

 安藤育宏に関しての私の持っている情報は少ない。一昨年に亡くなられて、私も諸々の情報を得る機会を失ってしまっている。しかしこうして残された作品には彼の心が見えて実に私は嬉しいのであるが、どなたか何かを教えてくれると有り難いのであるが・・・・・。

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2012年5月14日 (月)

絵画との対峙-私の愛する画家(1) 「相原求一朗」-4-

抽象か?具象か?を乗り切った相原求一朗

 まず、参考までに、相原求一朗が絵画の道に情熱を持ち、猪熊弦一郎に師事した直後の作品を見ておこう。

Photo_2

相原求一朗「白いビル」 油彩・キャンバス  1950 72.5×90.5㎝ 
   (「相原求一朗作品集」1977 日動出版部 より)

 これは彼の初期の作品(1950年)。第14回新制作派協会展出品作で、マチスの影響を受けた猪熊弦一郎(1902-1993, 東京美術学校にて藤島武二に師事、1936年新制作派協会設立、1955年ニューヨークに拠点を持ち、抽象の世界に移る)に師事しての直後で、初入選となったもの。
 これは彼の一つのスタートとしての記念作といってもよいと思うが、抽象化の世界が見えている。この後次第に師の指導の下に更に抽象化は進んだ作品となる(参考:前回紹介「ハイライド」1956)。

Photo (←) 相原求一朗「船台」1959 油彩・キャンバス 162.0×130.5㎝ (「相原求一朗作品集」1977 日動出版部 より)

 相原求一朗の抽象化路線、それは見たものそのものを写実的に描くのでなく、対象を簡略化し造形の組み立てを重視した構成主義的作品と評されている。
 しかしその流れが続く中で、彼自身には次第に絵画への姿勢や作品そのものの質に疑心暗鬼が生まれるのみで、そして彼の混迷期に突入したわけである。

 混迷期に陥った要素はその他にもあったようだ。彼がモダニスム路線の新制作派協会にあって、当時海外からも新しい絵画のスタイルが押し寄せてくるという日本でも激動の美術界の中で、師の猪熊は米国に移ってしまい、自己を見いだせないままに作品は落選を繰り返していた。一方家業を継いでの日常生活で、絵画制作に生活が二股状況にもあり集中度に障害があった。絵画作家としての最大のピンチに陥ったわけである。

 こんな時を脱出できたのは北海道の世界であった。その時の状況に焦点をあててみたい。まずは彼の当時を振り返っての著述をここに紹介する。↓

****** (1959年40歳)  私は昭和三十四年(1959)頃から絵画制作に対し、大きな疑問が次々と生まれて、思うように絵が描けなくなってしまった。この頃、抽象芸術が一世を風靡し、具象から抽象に転向する画家が多かった。時流におされて、私も当然抽象に傾いたが、それは自分本来の欲求と言うより風潮におくれまいとする安易な迎合の心理が作用した事も否定できない。

****** (1960年41歳)  相変わらず絵が描けない苦しい日々が続いた。画架に向かっても空虚で構想も湧かなかった。何故に描けないのかと考えてみても、根本的に解明されぬまま絵筆が握れなかったのである。抽象の金縛りにかかって、ただ悶々とした日々が過ぎていた。
 私は1961年の秋、北海道旅行に出かけてみたのである。北海道の風土はおおらかで美しかった。そして、狩勝峠からのあの雄大な展望に接したのであった。その狩勝の展望こそ、私の今日に至る芸術思考に転機を与えてくれた唯一のモチーフであった。褐色の地面に点在する白樺や銀色に輝くすすきの穂波、紅に染まった灌木の林、鈍重な緑の蝦夷松群の色面構成はそのまま抽象の画面であった。しかし、そこに展開する風景は明らかに具象の世界なのである。私は、この雄大な抽象風景に心酔しながらそこに具象的な表現動機を見いだし、翻然として私の心象と融合し始めたのであった。
 かって多感な青春時代を過ごした満州の広漠たる原野と、幼年時代に感じた関東平野の薄暮の幻影によって、失っていた自分を取り戻し、謙虚に自然への帰依となった。久しぶりに鬱ほつたる闘志が湧いてカンバスに向かったことである。翌年の新制作協会展には、この狩勝峠をモチーフにした「風景」(↓)を出品して新作家賞候補になり、さらにその翌々年、根釧の原野を描いた「原野」と「ノサップ」の二点を出品して新作家賞をとった。
(「相原求一朗作品集」1977 日動出版部 限定800部 より)

Photo_2

相原求一朗「風景」 1962 油彩・キャンバス 131.0×162.0㎝
   (「相原求一朗作品集」1977 日動出版部 より)

 これは北海道に自己を発見しての作品(新作家賞候補)。
 この後、彼の精力的な活動は海外の至るところに広きに及んだ。しかし究極は北海道、北フランス(ブルターニュ、ノルマンディー)が彼の作品の中核をなすに至る。

Photo_3

相原求一朗「すけそうだらの詩(ノサップ)」 1968   油彩・キャンバス 130.0×193.8㎝
   (「相原求一朗作品集」1977 日動出版部 より)

 こうした流れで彼の第二期は充実し、詩情ある作品を多く残した(参照:相原求一朗-3- http://osnogfloyd.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-a281.html)。この時代が私の最も好きな作品群である。(たまたま私が入手出来た作品もこの時代の1972年制作であった)
 
 そして1980年以降(第三期)は、彼の総決算とも言える人生を達観したかのごとくの姿が表現されたガッシリとした抽象とは一線を画す世界が描かれるようになる(参照:相原求一朗-2- http://osnogfloyd.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-6100.html)。

 相原求一朗の絵画の三期の変化には目を奪うほどのそれぞれの個性ある強烈な世界がある。しかしそれが人ひとりの人生としてみるに興味深いのである。

(絵画の公開 : 著作権法第三十二条に準じています)

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